29歳―。
それは、節目の30歳を目前に控え、誰もが焦りや葛藤を抱く年齢だ。
仕事や恋愛、結婚など、決断しなければならない場面が増えるにもかかわらず、考えれば考えるほど正解がわからなくなる。
白黒つけられず、グレーの中を彷徨っている彼らが、覚悟を決めて1歩を踏み出すとき、一体何が起こるのか…。
▶前回:同窓会で憧れていた女子に再会したら…。変わり果てていたうえに、衝撃の事実を告げられ
ある美しさ【前編】
「やっぱり…。お尻がだいぶ変わってきてるなぁ…」
恵理は、姿見に背中を向けて立ち、体を捻ってヒップラインを眺めながら、落胆の声を漏らす。
恵理は、大手化粧品メーカーの広報として働いている。
会社の花形であり、華やかさが求められるだけに、ある程度容姿には自信を持っていた。
男性社員からもチヤホヤされることが多かったが、ここ数年、状況の変化を感じる。
28歳になるあたりから、食事やデートに誘われる機会が減り、29歳も後半となった今、飲み会に誘われる頻度でさえも格段に落ちた。
男性にとって重いと感じる年齢という理由もあるだろうが、ほかにも女としての価値を損なう要因がある気がする。
― なにが違うんだろう…。
職場で、恵理は20代前半の後輩たちを眺めながらぼんやりと考えた。
体重も体型も維持しているし、顔もさほど変わっていない。それなのに、どうにも埋めがたい差があるように思える。
恵理は、年齢差のある社員を見比べながら、ハッと息をのむ。
― そうだ。後ろ姿だ!
若い後輩たちは、後ろ姿からでも溌溂とした様子が伝わってくる。まるで背中からエネルギーでも放っているかのように…。
要因となるのは、姿勢、腰回りの肉づき、ヒップラインなどの差であると推測した。
そして、自宅に戻って後ろ姿を確認したところ、ヒップラインの崩れを目の当たりにしたのだった。
― う~ん、ダイエットならいくらでもするのに…。
恵理は意志が強く、厳しい食事制限にも耐えられる自信はあった。
ただ、今必要とされるのは運動であり、それは恵理の苦手とするところだった。
これまで加圧トレーニングやヨガに取り組んだことはあったが、長続きしたためしがない。
― なんか、私に向いてるスポーツないかな…。あわよくば、出会いもありそうなものだといいな…。
恵理はパソコンを開いて検索を始めた。
しばらく検索を続けていると、格闘技の動画に行きついた。
― へぇ、キックボクシングね。カッコいいかも。
恵理でも知っている有名な選手がリング上で戦っている。
警戒しながら細かく攻撃を出すなかで、おもむろに後ろ回し蹴りを放つ。
それが相手選手の顔面にヒットし、意識が途切れたようにゆっくりと倒れた。
「うわっ!すごっ!」
鮮やかに繰り出された技に、恵理は驚嘆した。眠るように相手を倒した一撃は、美しくもあり、芸術性さえ感じた。
― これやってみたい!しかも格闘技って男性も多そうだし、一石二鳥かも。
単純な恵理は、もしかしたら自分の意思の強さは、格闘技に向いているかもしれないとも思った。
早速、目ぼしい格闘技のジムを探し始める…。
◆
恵理は更衣室で着替えを済ませ、スポーツウエア姿でフロアに出る。
汗のにおいが漂うフロアの中央に、ロープの張られた四角いリングがある。
隣には、天井からぶらさがったサンドバッグが並び、練習生たちがパンチを打ち込んでいる。
何人か、女性の姿も見える。
恵理は、自宅のある恵比寿から電車で数駅のこのジムに連絡をして、1日体験レッスンを受けにきたのだ。
フロア内を見回していると、同じ歳ほどの男性が近付いてくる。
「トレーナーの松山です。今日は私が担当させて頂きます」
「あ、よろしくお願いします!」
― イ、イケメン…!この人に教えてもらえるなんてラッキー!
スポーツマンらしい爽やかな笑顔。身長はそこまで高くないものの、引き締まった肉体がTシャツ越しにでも伝わり、男らしさを感じる。
「では、ストレッチから始めましょうか」
空いたスペースに移り、軽く体を動かし始める。
「戸田さんは、どうしてボクシングをやってみようと思ったんですか?」
「あ、はい。あの…運動不足を解消したいのと、ストレス発散にもいいかなと…」
“出会いも期待している”というよこしまな目的は、伝えずにおいた。
「あと、私あれがやりたいんです。あの、後ろ回し蹴り!カッコいいですよねぇ」
脚をあげてポーズをとる恵理を、松山がポカンとした表情で見つめている。
「いや、あの…戸田さん。うち、ボクシングジムだから、蹴りは教えてないんですよ」
「え…?」
辺りを見回すと、確かにキックの練習をしている人はいない。
「じゃあ、バックブローは…?」
「反則ですね…。どうしましょう…」
松山が困った様子で尋ねる。
「あ、ああ…そうなんですね。いや、でも、キックがなくても…」
― まあ、1日体験だし…。トレーナーの松山さんもイケメンだし。今日は続けよう。
練習続行となり、続いてのメニューである縄跳びへと移る。
フロアには、試合同様1ラウンド3分ごとにブザーが鳴る。1分のインターバルを挟んでまたブザーが鳴り、次のラウンドが始まる。
2ラウンド6分の縄跳びを終えると、もう汗が噴き出していた。
「次は鏡の前に行きましょう」
松山の指示のもと、壁に張られた大きな鏡の前に立つ。
「左足を半歩前に出して。で、右の拳を顎に添えて、左の拳を前に出す感じで。そう、いいですね」
松山は背後から手を回して恵理の腕に添え、ファイティングポーズをとらせる。
― やだ…。距離が超近いんですけど。汗のにおい大丈夫かな…。
恵理は体臭を気にかけながらも、指示通りに動く。次第に肩の力が抜けて、ポーズも様になってくる。
すると、何かがおこなわれるのか、中央のリングに人が集まり始めた。
「これからスパーリングが始まるんですよ。見てみますか?」
「スパーリング…?」
「まあ、練習試合みたいなものですね。だから、ああやってヘッドギアをつけるんです」
頭に防具をつけた選手が2人、リングにあがる。
ブザーが鳴り、リング上の選手が動き始める。
― うわ…。けっこう迫力あるなぁ…。
目の前で繰り広げられる光景に、恵理の鼓動が急激に速まった。
開始2分ほどしたころ。
一方の選手のパンチが相手選手の顔面にヒット。膝がガクッと折れ、よろめいて後ろに倒れる。
― あのキックボクシングの試合と一緒だ!
恵理がネットで見た動画のダウンシーンと重なる。
「ストップ!ストップ!」
トレーナーが2人あいだに割って入り、スパーリングが中止された。
倒れた選手が立ち上がると、戦いを終えた2人はいくつか言葉を交わし、リングを降りる。
恵理は衝撃的瞬間を目撃したように感じ、胸の高鳴りがおさまらない。
― パンチだけで相手を倒しちゃうなんて…。
キックボクシングの試合も迫力があり、足技でのダウンシーンは圧巻だった。
だが、ボクシングで使われるのは、拳ひとつ。シンプルゆえの洗練された美しさを感じ取った。
「松山さん!」
恵理は、息を弾ませながら松山のもとに駆け寄る。
「私、決めました!このジムに入会します!」
衝動のままに意思を伝えた。
◆
体験レッスン終了後、恵理は練習場の上の階にある事務所内で入会手続きを済ませた。
「これからよろしくお願いします!」
練習生らしい威勢のいい挨拶をして外に出る。
玄関で靴を履き替えようとすると、練習生の男性と鉢合わせる。
「お疲れさまです」
声をかけられ顔を見ると、さっきスパーリングで倒されていた男性だった。
恵理は思わず、「大丈夫でした?」と尋ねてしまう。
「あ、はい。いつものことなんで」
男性は鼻の頭を擦りながら、気まずそうな笑顔を浮かべた。
建物を出て、駅までの道を一緒に歩きながら会話を続ける。
「スパーであんな倒され方して、情けないですよね。もうじき試合だっていうのに…」
「え、試合?プロなんですか?」
「はい、一応。まだ勝ったことはないんですが…」
男性の名前は、神木隆志。年齢は25歳。
ボクシング歴は3年でプロになって1年。戦績は2戦して2敗とのこと。
色白で穏やかな表情をしており、ボクサーのイメージとは程遠い。
「戸田さんは、どうしてボクシングを?」
「私もプロボクサーを目指して…って言いたいところだけど、まあシェイプアップのためってところかな」
「そうなんですね。実は僕も、最初はダイエット目的だったんです。体重が今より30キロも重かったんですよ」
「30キロ!?ええ、嘘でしょう…?」
驚きのあまりつい体を触ってしまう。その名残りはまるではなく、やはり服の奥に引き締まった肉体の存在を感じる。
それに、均整が取れた体型で、お尻もキュッと上がってヒップラインも美しい。
― 私もこれぐらいになれるのかしら…。
「食事とかはどうしてるの?」
「今夜は、鶏のささ身と豆腐と、サラダってところですかね」
「なるほど、たんぱく質中心ってことね。…え、それだけ?」
「はい、減量中なんで…」
― ええ…。私なんて、今日は運動頑張ったから、恵比寿駅の近くで中華でもテイクアウトしようかと思ってたわよ…。
恵理は、体験レッスン程度でご褒美を得ようとしていた自分を戒めた。
「じゃあ、僕はこっちなんで」
改札を抜けると、神木は恵理とは反対方向のホームへ向かう。
「うん、試合頑張ってね。応援行くから!」
恵理がガッツポーズでエールを送ると、神木が頬を赤らめた。
― あれ?照れてる?なに、ちょっと可愛いじゃない。
神木と別れ、ホームへの階段をあがる。
― 今日はいろいろ収穫があったなぁ…。
衝撃あり、感動あり、さらに出会いありと、恵理にとって心揺さぶられる1日となった。
ホームに出ると、向かいのホームの同じ位置に神木が立っていた。
恵理が手を振ると、神木がペコリと頭を下げた。
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2022年12月4日