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新海誠監督がついにやった! 11年向き合った集大成 「すずめの戸締まり」茶一郎レビュー

映画スクエア

 新海誠監督は榎本正樹さん著「新海誠の世界」という書籍中のインタビューで、この「日本的アニミズム」を物語要素として描くことについてこうおっしゃっています。「僕は自分の日本の観客にまず届けたいと考えています。その際に、物語の仕掛けとして有効なのは日本の風土です。(中略)観客の直感的な理解に、まっすぐな説得力を持っているのはアニミズム的な世界なんです」。これは『天気の子』の際のインタビューですが、一貫してこの三部作で土俗・民族的な設定をあくまで観客の理解のフックとして活用しました。

 「災害三部作」の共通点である設定の一方、本作『すずめの戸締まり』で他の作品と異なる点が沢山ありました。興味深かったです。単純に女性主人公ということですね。ボーイ・ミーツ・ガールではなくガール・ミーツ・ボーイ。新海誠監督作といえば、『天気の子』のように男性主人公のモノローグから始まる男性主体の語り、もしくは『君の名は。』のような男女ダブル主役ですが、本作では明確に主人公は女性の鈴芽となっている。新海誠作品お馴染みのモノローグ演出もなく。演出で言ったらRADの音楽に合わせてMV的に編集する演出もない。初期の構想では草太のポジションは女性キャラで女性同士のロードムービーになる予定だったとの事ですから、そもそも恋愛対象の男性キャラクターすらいなかった。本作の鈴芽と草太の関係も前作と比較すると、そこまで恋愛恋愛していません。かなり過去作とは異なるテイストに挑戦しようとしていた意図が見られます。

 お決まりの自己引用的要素が少ない一方(であるのは)、これは皆さん感じられたと思います「ジブリ感」ですね。監督が公言されている『魔女の宅急便』に加えて、呪いをかけられた男性と災害を起こすミミズは、『もののけ姫』のデイダラボッチをちょっと連想しました。草太のキャラクター造形もハウルかもしくはハクを垣間見えます。

 ジブリ風味の新海誠作品と言うと、絶対に思い出すのは『星を追う子ども』という作品です。この作品は、本作とは比べ物にならないほどにジブリ的要素のオマージュというより引用が多く、かなり監督のフィルモグラフィ上、異質な「新海誠監督がジブリをやってみた」な作品。言うまでもなく『星を追う子ども』も本作同様、新海誠作品には珍しく女性単体主人公の作品です。この『すずめの戸締まり』のジブリ感、監督的にはジブリへのリスペクトと挑戦とも見えますし、個人的に気になるのは『すずめの戸締まり』が『星を追う子ども』のリベンジになっているという事ですね。決して成功作とはいえない、興業的にも、監督ファン的にも成功作ではなかった『星を追う子ども』とほぼ同じ物語構造と女性主人公の物語を本作で再現し、一定の成功に導いているという点で、成熟した新海誠監督の成長を垣間見る一本でもあります。

 と同時に『星を追う子ども』の公開日は、2011年5月7日。3.11直後の公開だったことを思い返すとこのリベンジの意味も深まります。3.11直後に公開された『星を追う子ども』から11年経った本作『すずめの戸締まり』は、「震災」「災害」を描き続けてきた監督が真にそれと真正面から向き合った一本でもありました。さてここからは物語中盤以降の展開について言及しますので、絶対に本編ご鑑賞後にお聞き下さい。

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!!以下は本編ご鑑賞後にお読みください!!

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 『小説 すずめの戸締まり』の新海誠監督によるあと書きにはこうあります。少し長いですが引用しましょう。「僕にとっては三十八歳の時に、東日本で震災が起きた。自分が直接被災したわけではなく、しかしそれは四十代を通じての通奏低音となった。アニメーションを作りながら、小説を書きながら、子どもを育てながら、ずっと頭にあったのはあの時感じた思いだった。(中略)アニメーション映画を作ることが、いつの間にかほとんど同じ作業になっていた。あの後も世界が書き換わってしまうような瞬間を何度か目にしてきたけれど、自分の底に流れる音は二○十一年に固着してしまったような気がしている。その音を聞きながら、僕はこの物語を書いた」。とても正直で誠実な監督の本作についての告白だなと思いました。

 新海誠監督が「震災」「災害」を意識したアニメ制作をし始めたのは、その『星を追う子ども』の次の作品『言の葉の庭』までさかのぼれると思います。『言の葉の庭』の企画書の監督の言葉を引用しましょう。「(前略)東京の風景はおそらく、数年か数十年のうちに訪れるかもしれない巨大な災害により大きく変わってしまうかもしれない。だから今この揺れる大地の上にある日常を、そこを歩く足の物語としてアニメーションに留めていきたいと思う」。

 この『言の葉の庭』での震災に対するアニメ制作の所信表明は、ご存知の通り「災害三部作」の一本目『君の名は。』にて、主人公・瀧くんが建設業界に就活をしている際のセリフとして反復されます。「東京だっていつ消えてしまうか分からないと思うんです。だから記憶の中であっても、何て言うか、人を温め続けてくれるような風景を」セリフはここで切れますが、この後に続く言葉は「記憶の中であっても、人を温め続けてくれるような風景を『作っていきたい』『作りたい』」と続くと思います。

 まさしくこの『言の葉の庭』での企画書の言葉、瀧くんの就活中の発言は、本作『すずめの戸締まり』の「震災」描写。震災によって失われた人々の、街の記憶をアニメによって再び甦らせた、真っ向から震災、3.11に向き合った監督の姿勢として再現されました。

中盤以降について

 本作『すずめの戸締まり』はまさしく「記憶の中」の「街」の風景をアニメーションとして再現していく映画です。九州から四国、神戸と、旅をして廃墟にある「後ろ戸」を閉める、戸締まりをする過程で鈴芽は廃墟になる前、賑わっていた街の記憶を目撃することとなります。

 街の記憶をアニメで甦らせる。監督は企画書でこの行為を「場所を悼む」という素敵な表現をされています。本作は過疎化、限界集落といった社会問題を背景にしながら、その悼む場所を、アニメとして再現する土地を、なんと3.11、東北まで射程を広げます。これには本当に驚きました。『君の名は。』のようなファンタジーSFでフィルターをかけた「3.11」ではありませんでした。現実の「3.11」そのもので。鈴芽は草太を救うため、故郷である東北を訪れる。鈴芽は震災孤児だと判明する。この『すずめの戸締まり』は何と3.11の被災地を最終目的地とするロードムービーでした。

 鈴芽の乗るオンボロのオープンカーが道路ですれ違うのは「汚染土壌」「除去土壌」と書かれた大型トラック。オープンカーから見える風景は廃屋、廃墟となった住宅街、商店街。ここまで直接的に新海誠監督は3.11の被災地を描きました。僕も直接被災した訳ではありませんので、こういった形で被災地がアニメになる被災者の方々の思いは到底想像できませんが、ただただ驚きました。中盤までのロードムービーで車の窓から見えていた風景はとても綺麗な海、建物、四国の街、それが中盤から一変します。僕は物凄く、この中盤から見せられる景色、風景は酒井耕、濱口竜介共同監督の東北と被災者の証言を映したドキュメンタリー「東北記録映画三部作」を思い出しました。この三部作も被災者の証言と対話の途中に、監督が運転する車の窓から見た被災地の生々しい映像が挿入されるドキュメンタリーですが、そんな「東北記録映画三部作」と比較できるほどの生々しさですよ。凄いことをやっているなと。

 さらにアニメで表現された東北の背景を観ていてさらに驚くのは、あるシーン。オープンカーの運転手である草太の親友の芹澤が東北の風景を見て、こんな事を思わず呟く「このへんってこんなに綺麗な場所だったんだな?」と、正直、観客もやはり「新海タッチ」ですから、いくら廃墟だろうと、どうしてもアニメ表現としては「綺麗」と思ってしまう風景ではあります。そんな観客の何気ない感情を代弁するかのような「綺麗な場所だったんだな?」。その綺麗な場所の片隅には原発らしきものも映っています。その芹澤の呟きに対して鈴芽は「えっ」と、ハッキリと嫌悪感を露わにします。震災孤児である鈴芽はこの「綺麗」に対して、決して綺麗ではない黒色のクレヨンで塗られた絵日記の、その黒を思い出す。

 この一連の描写において、今までの新海誠監督の特徴である「風景」の意味が逆転します。「新海タッチ」と呼ばれてきた、圧倒的に美しい背景、キャラクターと背後の景色が融合するアニメーション、綺麗と言わない人はいないその美術とアニメ表現、それを真正面から否定します。「そんな綺麗なものじゃない」「被災者の気持ちを忘れていないか」「綺麗なアニメの裏には悲惨な現実がある」そう鈴芽の嫌悪感が観客にも向けられるような、このシークエンスには背筋が凍るような思いを覚えました。

ラストについて

 「災害三部作」1作目『君の名は。』は奇遇にも同じく3.11をフィクションに落とし込んだ『シン・ゴジラ』と同年に公開され、その内容はSF的能力によって災害の被害を少なくする物語でした。しかしこの物語には震災を恋愛エンタメとして消費している、震災を無かったことにしている当然、批判も多いことを記憶しています。

 2作目『天気の子』。個人的には新海誠監督最高傑作と呼びたい『天気の子』は確かに直接的に地球温暖化、それに伴う異常気象という災害を描きました。併せて「雨の降り止まない2021年の東京」はコロナ禍によって不要不急の外出を控えなければいけないほとんど無人の東京の街を予言していたかのようで個人的に痛烈な、鋭いビジュアルイメージでした。コロナウイルスは決して平等ではなく、コロナ禍において犠牲者となったのは『天気の子』の人柱となった陽菜のような若者たちというのも印象深かった。

 しかし『天気の子』で描かれる災害に対して、新海誠監督の言葉「異常気象が常態化している世界で生きていく世代には、それを軽やかに乗り越えて向こう側に行って欲しい。(中略)力強く走り抜けて行ってほしいという思いを伝えたかったんです。」その言葉通り、東京を救うより目の前の愛する人を選ぶ、災害を受け入れる、かなり反社会的な一本で、この主人公の選択に困惑した方もいらっしゃると思います。

 前二作で批判を受け、直接的な描写を避けてきた監督が、さあ本作、3.11震災孤児である鈴芽を主人公にした本作『すずめの戸締まり』において、ようやく監督は震災そのものと向き合う挑戦的な、こんな大規模公開のエンタメ作品でやってしまったという…これは驚きと同時に問題作でしょう。ついに『君の名は。』から6年、いや『星を追う子ども』から、3.11から11年、震災と直接向き合ってみせたよと。震災孤児の心の傷を無かった事にするのではなく、正面から描こうとしたと。

 これは本当に描いて良かったのでしょうか。前述の通り、『すずめの戸締まり』はまるでリベンジかのように、『星を追う子ども』と類似の物語構造を取ります。父親不在の家庭で育った女性主人公の、「行ってきます」から「ただいま」までを描く「行きて帰りし物語」。恋した男性のために「あの世」常世に行く、これは『君の名は。』の「隠り世(かくりよ)」、『天気の子』の「彼岸」も同様でしたね。3.11から、『星を追う子ども』から11年の時を経て『すずめの戸締まり』でリベンジを果たしたと、僕は思います。

 「記憶の中であっても、人を温め続けてくれるような風景を『作っていきたい』『作りたい』」。最もパワフルに、この『すずめの戸締まり』が記憶の中の風景を再現するのは、鈴芽が訪れた常世で、3.11の被災者の方々の何気ない日常がアニメとして再現される様子でした。「おはよう」「おはよう」「いただきます」「行ってらっしゃい」「行ってきます」「行ってきます」「行ってきます」このおそらく実写では表現し得ない生々しさでしょう、アニメでしか、また「新海タッチ」風景にこだわり続けてきた新海誠監督のそのこだわりが最高密度の感動を呼ぶ「被災地の記憶の再現」これには今まで観ていた違和感も何もかも吹き飛びました。このパワーはちょっと悔しいですが、肯定してしまいます。

 個人的に本作は「戸締まり」という一見、余りポジティブなニュアンスのない言葉、「締める」「閉ざす」「戸締まり」の意味合いが逆転していくのが好きでした。後ろ戸を閉じる。家の鍵を締める。自転車の鍵を開ける。劇中、何度も繰り返される鍵のアクションですが、扉を閉める、「戸締まり」をするということは新しい世界へ、新しい外の世界へと足を一歩踏み進メルために必要なポジティブな行為なのだと、震災孤児は己の心の傷と向き合い、「戸締まり」戸を締めることで「行ってきます」新しい世界へ進むことができる。己の傷と向き合いながら、それでも世界を生きていく。

 『すずめの戸締まり』これにて監督による災害三部作は完結となりました。さぁ震災と向き合った11年間、ここから新海監督は次に何を描くのか、本作で通奏低音、テーマに一旦の「戸締まり」をした監督がどこに向かうのか、本作を経て次回作が本当に楽しみな監督となりました。今週の新作『すずめの戸締まり』でございました。

【作品情報】
すずめの戸締まり
2022年11月11日(金)公開
©2022「すずめの戸締まり」製作委員会

茶一郎
最新映画を中心に映画の感想・解説動画をYouTubeに投稿している映画レビュアー

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