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村田兆治さん、離島で知った「社会への恩返し」自ら言い聞かせた言葉は「人生先発完投」

SmartFLASH

 

 撮影のため上半身裸になってもらうと、意外なほど筋肉はついていない。

 

「ストレッチは毎日やる。野球選手に必要なのは柔軟性。ゴルファーだって同じだよね。野球選手に上体の筋肉はそれほど必要ないんだ。僕だって野球をやってなかったら、もっと腕を太くしてね、がっちりした体にしたいと思っただろうね。カッコいいじゃない(笑)」

 

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 33歳で肘にメスを入れた。すでに156勝をあげ、引退の二文字が頭をよぎった。山籠もりし、滝に打たれ、悩んだあげく、決断した。

 

 当時の日本の常識は「投手が利き腕を手術したらおしまい」。大谷翔平やダルビッシュ有も受け、いまでこそ常識となった「トミー・ジョン手術」だが、日本人で受けたのは、村田さんが最初だった。

 

「自分がこの仕事をなくしてしまったら、ほかには何もできない。投げられないなら死んだも同じ。そういう強い思いがあったからこそ踏み切った」

 

 手術後は、気の遠くなるようなリハビリの日々が続いた。

 

「生まれたばかりの赤ん坊だって握れるスポンジが、最初は握れない。焦ってやり過ぎると、今度はヒジが腫れあがってくる。『失敗した』と思って落ち込む。

 

 でも、そういう自分に言い聞かせるんだ。『お前、自分でやろうと決めたんじゃないのか』と。そういうことの繰り返しだったね」

 

 1984年8月、マウンドに復帰。1985年には開幕11連勝し、17勝をあげた。

 

「“復帰” しようなんて思わなかった。気持ちのなかには “復活” という言葉しかなかった。ただ投げるだけじゃだめなんだ。これが村田兆治なんだという投球を見せられなければ、意味がないと思った」

 

 

MLBの始球式に参加した村田兆治さん(2004年、写真:AP/アフロ)

 

 村田さんが引退後のライフワークとして取り組んだのが「離島」での活動だった。交流機会の少ない全国の離島の中学生を対象とした「離島甲子園」を提唱。2008年以降、毎年おこなわれている(2020年、21年は新型コロナのため不開催)。

 

 インタビューではそのきっかけを語っている。

 

「きっかけは新潟の粟島というところへ行ったことだった。村長さんから『ぜひ子供たちに会わせたいんです』と熱心に誘われてね。小さな島で、人口が425人。そのうち子供は15人しかいないんだよ。野球を見たことは、と聞くと『テレビで見たことしかない』って。

 

 

 球の投げ方、受け方いろいろ教えたんだけど、そこで『自分のできることはこういうことじゃないか』と思った。子供たちに野球の楽しさを知ってもらうのが、自分をこれまで支えてくれた人たち、社会への恩返しになるんじゃないかと」

 

 村田さんは、子供が相手でも決して手を抜くことはなかった。

 

「子供たちの目を見ているとわかるんだ。ホンモノを見た、ホンモノを感じたという目の輝きがね。何だって同じじゃないかな。口だけでいくら説明したってだめなことっていっぱいあるでしょう。だから子供たちにはホンモノを見せてやらなきゃいけないんだよ。

 

 最初は挨拶もできない子供が、僕が速い球をビシィッと投げるのを見たら、ガラリと変わるんだよ(笑)。離島の子供たちにだって、そういうホンモノを見せてあげないと野球の楽しさが伝わらないじゃない」

 

 このときすでに55歳とはいえ、140キロを超える速球を投げていた村田さんに、現役復帰の可能性を聞くと、「なに言ってるの。やるわけないじゃない。絶対にないね」と即答した。

 

 じつは、日本ハムが2004年に本拠地を北海道に移すとき、村田さんに現役復帰を打診してはどうかという話もあった。また、2003年には、古巣であるロッテの監督就任要請も。

 

「バレンタイン(監督)がだめなら、という話だった。だから『そんな仮の話をするな。失礼じゃないか』と言ったよ。それに今は離島のこともやっているしね」

 

 サインを求められると、いつも「人生先発完投」と書いた。文字の一画一画をていねいに。

 

「当たり前じゃないか。自分に言い聞かせている言葉だから、そんないい加減に書けるわけがないよ。『人生先発完投』とはつまりね、自分の人生が終わるとき、これでよかったんだと、そう思える自分でいたいんだ」

 

 そう語っていた村田さんは、72年の人生を完投した。

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