top_line

「エンタメウィーク」サービス終了のお知らせ

謎の死をとげたブルース・リーと遺作『死亡遊戯』 “五重塔バトル”に詰まったスターの魅力

BANGER!!!

ブルース・リー伝説と『死亡遊戯』

ブルース・リーほど後世の映画に影響を与え、多くの伝説を残したスターはいないだろう。当時、映画を見た男子は(一部女子も)みな“アチョー”という奇声(怪鳥音と呼ばれる)を発して動きをマネしたり、ヌンチャクを振り回して怪我したりしたものだ。

日本で彼の映画が公開されたのは『燃えよドラゴン』からだが、1973年12月の公開前に本人が謎の死をとげた(共演予定の女優ティン・ペイ宅で頭痛薬を飲み、昏睡状態から死に至った。諸説あるが死因は不明)ため、登場から伝説に包まれていた。7月20日が彼の命日で、生きていたら2022年で82歳になる。32歳での突然の夭逝だった。

遺作となった『ブルース・リー/死亡遊戯』(1978年)は、リー自身の監督作として企画されたもので、クライマックスの五重塔での格闘シーンを先に撮影したところで『燃えよドラゴン』の撮影に入り、いったん中断。彼の死後、遺されたフッテージを使って『燃えよドラゴン』の監督ロバート・クローズが完成したものだ。

したがって当初、リー本人が構想していたものとは違うし(オリジナルは大串利一監督の『BRUCE LEE in G.O.D 死亡的遊戯』[2000年]に詳しい)、代役や他作品の出演場面をおりまぜて作ってあるので、1本の作品として見ると無理があるし、おかしなところも多いが、単なる映画を超えた価値があるのだ。

詠春拳から始まった太く短い生涯

ブルース・リーは俳優の子として1940年(辰年)に父親の巡業先のアメリカで生まれた(母親がドイツとのハーフなので、リーはクォーターである)。生後3か月で映画初出演、戦後、香港に戻って子役として活躍という生まれながらの俳優だった。武道家としての道は少年時代に葉問(イップ・マン)の下で中国武術の詠春拳を学んだことに始まる。

広告の後にも続きます

不良息子の将来を心配した父親に命じられ、18歳で単身渡米。大学に通いながら中国武術の指導を始め、道場を開設し、截拳道(ジークンドー)を創始した(このときリンダ・エメリーと結婚し一男一女を設けた)。この頃、空手選手権で披露した詠春拳の演武を見たハリウッドのプロデューサーが、テレビシリーズ『グリーン・ホーネット』(1966~1967年)の運転手カトー役に抜擢。

その後、テレビシリーズ『燃えよカンフー』(1972~1975年)を企画し、自ら主演しようとするが実現せず、香港に戻ってショー・ブラザーズから独立したレイモンド・チョウが創設したゴールデン・ハーベストと主演契約。その1作目『ドラゴン危機一発』(1971年)が記録的な大ヒットとなり、一躍香港のトップスターになるも、4本のドラゴン映画を遺して急死――というのが、リーの太くて短い人生のあらましである。

ブルース・リーの魅力が詰まった五重塔バトル

ご存知クエンティン・タランティーノの『キル・ビル』(2003年)には、ブルース・リーへのオマージュがたくさん含まれている。その最たるものが、青葉屋へ殴り込むユマ・サーマンの着ている黄色いトラックスーツで、もちろん『死亡遊戯』でリーが着ていたものだ。彼女を迎えうつクレイジー88軍団の黒いマスクは、『グリーン・ホーネット』の日系人運転手カトーがつけていたもの。ビルを演じたデヴィッド・キャラダインは、リーが企画した『燃えよカンフー』に、リーに替わって主演した人である。

  • 1
  • 2
 
   

ランキング(エンタメ)

ジャンル