出身:大阪府
投打:右投右打
身長/体重:180cm/93kg
生年月日:1973年7月24日
ドラフト:1991年ドラフト4位
いてまえ打線の中軸を担い、美しいアーチを数々描いた中村紀洋も自由契約を経験した選手である。
渋谷高校(大阪府)を甲子園に導いた中村は、ドラフト4位で大阪近鉄バファローズに入団。3年目の1994年から出場試合を増やすと、1995年から2004年まで2桁本塁打を記録。近鉄が優勝した2001年はキャリア唯一の打率3割超え(.320)・46本塁打・132打点と大暴れした。
その後、2004年オフにメジャーリーグへの挑戦を表明。ロサンゼルス・ドジャースと契約したものの、思うような結果を残せず1年で退団し、2006年にオリックス・バファローズで日本球界に復帰した。だが、2006年はけが続きのシーズンとなり、成績を「公傷」とみなしてほしい中村と球団が対立。契約交渉はうまく進まずに自由契約となった。
「所属先なし」となった中村に手を差し伸べたのが、落合博満が率いる中日ドラゴンズ。テスト生として合格を受けた中村は、育成契約からのスタートに。その後は自らの手で支配下契約を勝ち取り、最終的には2007年日本シリーズのMVPに輝いた。テスト生から這い上がった中村の活躍は、今後も語り継がれていくことだろう。
石井琢朗
出身:栃木県
投打:右投左打
身長/体重:174cm/78kg
生年月日:1970年8月25日
ドラフト:1988年ドラフト外
長きにわたって横浜ベイスターズを支えた石井琢朗の戦力外通告は、多くのベイスターズファンに悲しみを与えた出来事だった。
1988年にドラフト外で入団した石井は、1993年からレギュラーの座を掴む。安定したバッティング技術と高い守備力に加え、俊足を兼ね備えた野手として、93年から95年までゴールデングラブを獲得した。また、最多安打や最多盗塁のタイトルも獲得し、不動の1番ショートとして試合に出続けた。
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1993年から2006年まで規定打席に到達した石井だが、2007年に出場機会を減らすと、2008年は98試合の出場に留まる。さらに、若返りを図るチーム方針も拍車をかけ、石井は球団から引退勧告を受けた。「功労者に対する扱いとしていかがなものか」という声もあった中、石井は引退勧告を拒否して自由契約に。
その石井に、広島東洋カープが救いの手を差し伸べた。石井を戦力として計算したカープは2008年の11月に獲得を発表。2010年は規定打席未達ながら打率3割を超えるなど、紛れもなく戦力として活躍した。
【了】