風呂場横の裏木戸の薄暗い中、先生も友達も私の泣き止むのをじっと待っていて下さいました。そして先生は帰る時に「寂しくなるけど、頑張らないとね」と言って下さいました。
次の日はお葬式です。当時のお葬式は、自宅から火葬場(土葬ならお墓)まで遺体と共に家族や親族、そしてご近所の組内の方々が、長い行列を組んで歩いて行くのです。
父は火葬でした。私の家から火葬場まで、町の大通りを、一時間近く歩いて行きました。思えばその大通りは、父の仕事が順調な頃に新年の「初荷」でミカンや紅白の餅を撒きながら、オート三輪車を走らせた道でした。
父は最後に、その思い出の道を通って終の世に旅立ったのです。下校中の友達も何人か見ているようでした。私はひたすら下を向いて、母や兄達の後をついて行きました。
父が世を去ったのは十二月末でした。すぐに新しい年を迎え、そして父のいない寂しい冬が足早に過ぎていきました。
涙の修学旅行
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私は中学三年生になりました。高校受験の年でしたが、勉強をする時間はとてもありません。再度母が泊まり込みの仕事に就いたからです。兄も映画館のアルバイトを一年位で辞めたようでした。
弟と妹は父が亡くなってからは学校から帰って来ると、元気の無い顔で留守番をしていました。父が家にいるだけで、安心感や温かさがあったのです。私も父のいない家の寂しさは同じでした。父の存在はとても大きかったのです。
中学三年生は修学旅行があります。箱根方面のバス旅行でした。
私は当然行けないと思っていましたが、突然帰宅した母の、
「修学旅行に行っておいで」と予想もしない言葉に、思わず「本当に! 行ってもいいの?」と、叫んでしまいました。
当時中学校は制服がありませんでした。修学旅行も私服です。私は母が仕事に出かけた後、母の洋服を持ち出して、着られそうな服を探しました。選んだ服は、今でも鮮明に覚えています。
白地に細かいグレーのドット模様のブラウスです。それは私の歳にはとても地味な、へちま襟で七分袖でした。紺のスカートに合わせて試着すると、何とか形になりウキウキしました。
当日は夜明け前の、まだ暗い中の出発でした。烏山は山に囲まれた町です。くねくねと曲がった山道を、何台ものバスが進んで行きました。前のバスの明かりの行列がキラキラと光り、暗闇の中流れて見えました。
そのゆらゆらと揺れながら走って行くバスの明かりを見て「何故なのでしょう?」涙が止まらないのです。つらい時に出ない涙が、嬉しい時にその分まで溢れてくるのでした。
隣の座席の友達が「どうしたの?」と声を掛けてくれましたが、私の涙に気づいて見ないふりをしてくれました。
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