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三島有紀子監督最新作『一月の声に歓びを刻め』に、高崎俊夫、西田宣善、関口裕子の三氏より、映画を読み解く奥深い批評がシネフィルに到着!

cinefil

『繕い裁つ人』『幼な子われらに生まれ』『Red』など多くの作品を手掛け、国内外で高い評価を受ける三島有紀子監督の⻑編 10 作目となる最新作『一月の声に歓びを刻め』。本作は、監督自身が 47 年間向き合い続けた「ある事件」をモチーフに自主映画からスタートしたオリジナル企画。

「性暴力と心の傷」をモチーフに、心の中に生まれる罪の意識を静かに、深く見つめる映画である。八丈島の雄大な海と大地、大阪・堂島のエネルギッシュな街と人々、北海道・洞爺湖の幻想的な雪の世界を背景に、3 つの罪と方舟をテーマに、人間たちの“生”を圧倒的な映像美で描いていく。 船でやってきた者を前田敦子、船を待つ者を哀川翔、そして船で向かう者をカルーセル麻紀が演じ、さらに、坂東龍汰や片岡礼子、宇野祥平、原田龍二、とよた真帆らが脇を固める。

そんな、三島有紀子監督『一月の声に歓びを刻め』へ、高崎俊夫氏(編集者・映画批評家)、西田宣善(映画プロデューサー、編集者)、関口裕子(映画評論家、編集者)の御三方よりシネフィルに映画に寄せた寄稿が到着しました!
より深く、映画を読み解く絶賛批評となっております。

『一月の声に歓びを刻め』をめぐる断章

高崎俊夫
(編集者・映画批評家)

「あたかも皮膚の病理学がそのまま人間の心にもあてはまるかのように、人は傷あとが癒えてなどと書くが、人間の生活にはそういったことはありえないのだ。傷口はひらいたままなのだ。それはときには針でつついたほどの大きさにまで縮まるかもしれないが、しかし傷はあくまで傷なのだ。苦しみのしるしというものは、強いて比較をするならば、むしろ指を失くしたとか、視力を失くしたとかいうようなものだ。私たちはそれがなくなったことに、一年のうち一分間も気づかないかも知れない。けれども、気づいたらさいご、もう手の下しようもないのだ。」ーースコット・フィッツジェラルド『夜はやさし』

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三島有紀子監督の長編劇映画としては十本目という大きな節目となる『一月の声に歓びを刻め』
は見終わっても、ある種、名状しがたい鈍い痛みにも似た感覚が裡に残り、それを後々までひきずっ
てしまう映画だ。そういう意味では彼女が過去に撮ったどの作品とも似ていない。
それはなぜかといえば、監督自身があらかじめ〝自主映画〟と標榜しているように、この作品
のモチーフがきわめてパーソナルな淵源を持っているからである。2019年の『映画芸術』469号は「私はこれで決めました1989ー2019」という特集が組まれ、60人の映画人がなぜ映画を志向したかを率直に語っているが、どちらかといえば多幸感あふれるノスタルジックな証言が目立つ中で、三島監督の「とにかく、映画がある。あの映画を見るまではとりあえず死ぬのはやめよう」というショッキングなタイトルの一文は他の映画人のエッセイとはまったく隔絶した衝撃的な内容を含んでいた。
そこで三島有紀子は六歳の時に、街中で見知らぬ男に声をかけられ、駐車場に引きずりこまれて、
性被害を受けた生々しい体験を吐露しているからだ。そして当時、あまりの屈辱感と自己嫌悪か
ら死への誘惑にも駆られていた自分を救ってくれたものこそが〝映画〟であり、あの頃の〝汚れ
てしまった〟自分を蘇生させ、生きることを丸ごと肯定してくれた〝映画〟への返礼として、映
画監督になる決意をしたことを告げる颯爽たるマニフェストでもあった。
『一月の声に歓びを刻め』は彼女が47年もの間、ずっと抱えてきた、忘れようのない過酷な<事件>に、初めて自ら真摯に向き合った作品なのである。むろん、その背景にはニューヨーク・タイムズの二人の女性記者がハリウッドに君臨するプロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインによるセクシャル・ハラスメントを告発した記事に端を発する「♯MeToo」運動の世界的な拡がりもあるだろう。だが、三島監督にとってはコロナ禍で日常の風景が一変した深刻な事態こそが大きかったのではないかと推測される。映画の企画が次々に延期を余儀なくされ、頓挫してゆく中で茫然自失しながらも、今の自分にとって真に撮るべき素材、原点となるテーマとは何なのかを模索していたと思しい。その間、三島監督は『よろこびのうたOde to Joy』、『インペリアル大阪堂島出入橋』という二本の短篇とドキュメンタリー『東京組曲2020』を撮っている。いずれもそれまでの作品にみられた劇的な物語性は希薄で、むしろ<語り過ぎないこと>に専心している印象がある。『一月の声に歓びを刻め』ではこの語り過ぎないという実験性がさらに徹底されている。
映画は第一章「北海道・洞爺湖中島」、第二章「東京八丈島」、第三章「大阪堂島」そして短いエピローグがつく。一見、まったく相互に関連にない場所で展開される物語は、「れいこ」と名づけられたヒロインをめぐる三つの変奏として一つの物語に昇華している。

第一章では「れいこ」は、すでに47年前、6歳の時に洞爺湖のほとり、中島で亡くなっている。その近くに住むマキ(カルーセル麻紀)は元旦にやってきた長女美砂子(片岡礼子)とその夫、正夫(宇野祥平)と孫のために手づくりのおせちを振舞うが、心ここにあらずで会話もギクシャクしている。美砂子は自分の年齢すら覚えてくれないマキを冷ややかに眺め、「お父さんがつくるおせちは、れいこのすきなものばかりね」と嫌味を言う。さらに孫には「マキちゃんをいまだにお父さんと呼ぶなんて、おかあさん、性格悪いね」と非難される始末だ。マキは、れいこの死の以来、時間が止まったかのような深い失意の中に沈潜し、幽閉されているのだ。れいこを救えなかった贖罪感から男性器を切除し、<女>となったマキが夜中に、突然、自暴自棄となって自らの性器を切断する仕草を繰り返すシーンは、倒錯的な自己懲罰であり、まさに鬼気迫る。元祖トランスジェンダーであり、半世紀以上の長きにわたって言われなき差別や偏見に晒されながらも、果敢に闘ってきたカルーセル麻紀以外、誰にもなしえない名演といえよう。これは、れいこを失った父の視点で綴られた、白銀に包まれた静謐な世界で粛々と遂行されるもう一つの〝喪の仕事〟に他ならない。

第二章は平安時代以来、罪人たちの流刑地と知られている八丈島が舞台である。
牛飼いの男、誠(哀川翔)は、五年ぶりに帰郷した娘・海(松本妃代)が妊娠していることに気づき、動揺を隠せない。相手は少年院上がりの島の男で、娘あてに届いた手紙には離婚届が入っており、明日、男はフェリーで帰ってくるという。激高した誠は鉄パイプを握って、船着き場へと向かう。
余計なくだくだしい説明を一切、排除したシンプルな寓話というべきだろうか。哀川翔が演じた、海の気持ちを理解できない、一本気で荒ぶる暴力性を抱えた父親は、「れいこ」を凌辱した加害者そのものをシンボライズしているとはいえまいか。路上で鉄パイプを抱えて、仁王立ちになった海が誠を睨みつけ、「人間なんてみんな罪びとだ」と叫ぶシーンが印象に残る。

第三話は、三島監督が生まれ育った大阪・堂島が舞台である。晩年、施設に入っている母親がつぶやいた「インペリアルのハンバーグが食べたい」という言葉をヒントに撮られた短篇『インペリアル
大阪堂島出入橋』は、閉店したレストランの店主・佐藤浩市がハンバーグを載せたプレートを持って夜明け前の、薄明の堂島の街中を彷徨い歩くさまを11分40秒という驚異的な長回しでとらえた傑作である。なによりも、そこには三島監督の変貌を遂げ続ける堂島という街への慈しむような感情が織り込まれていた。
しかし、第三話は、大阪、南港に到着したフェリーの甲板にひとり佇むれいこ(前田敦子)をロングショットでとらえた冒頭から、硬質なモノクロ映像独特の沈鬱なトーンが支配し、その冷え冷えとした感触は、1950年代のイタリア映画を見ているようである。それまでは、物語の背景にひっそりと、気配としてのみ存在していたれいこが、一挙にヒロインとして前景化してくるのである。かつての恋人拓人の葬儀のために大阪に帰ってきたれいこは、淀川の河川敷で、トト・モレッティと名乗るレンタル彼氏(坂東龍汰)にナンパされる。拓人が好きだった映画がナンニ・モレッティの『息子の部屋』(01)だったという意外な符号から、れいこは一晩、男を買うことにする。ラブホテルの一室で問わず語りに、れいこは六歳で性被害にあい、以後、好きな人とセックスできるからだではないと思い込み、できなかったことを告白する。いっぽう、トトは、マンガ家志望で、イタリアを放浪した時、ナポリと大阪が似ていること、イタリアの娼婦から聞いた「客を喜ばせるため、ほんとうに愛しているふりをする。そう思い込まないと互いに虚しい方から」という話が腑に落ちたのか、れいこはトトとセックスをする。
翌朝、れいこはトトを連れて、おぞましい記憶しかない犯行現場である駐車場へと向かう。そこで、ふたりのあくまでちぐはぐな、<関係>とすら呼べない浮薄な関わりに終止符が打たれるのだが、同時にれいこはトトを、完膚なきまでに面罵するのである。
その後の真のクライマックスである、実際の犯行現場でれいこが金魚草を引きちぎりながら慟哭するシーンは、三島監督にとっては、一種のラディカルな自己治療行為にほかならないだろう。自らのあまりにも仮借ない原体験を、セルフ・ドキュメンタリーのナルシシスティックな〝私語り〟ではなく、このような抽象度の高いフィクション、劇映画のスタイルで表現した映画作家はこれまでいなかったのではないだろうか。前田敦子が歌を口ずさみながら、一瞬、かすかに微笑むエンディングを見ながら、私は、フェリーニの『カビリアの夜』(57)のラスト、愛人に裏切られ、絶望した娼婦ジュリエッタ・マシーナがカメラに向かって笑みを浮かべるシーンを想起した。フェリーニほど飽くことなく自伝的なテーマに執着し、救済を希求した映画作家はいなかった。この映画をつくることで、三島有紀子監督はささやかながらも自己を救済できたのだろうか。

『一月の声に歓びを刻め』に紛れ込む映画の様々な要素

西田宣善
(映画プロデューサー、編集者)

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