食堂車でもビュッフェでもない、それがいい! 列車に「ラウンジ」がある意味 まだまだ進化中!

観光色が強い鉄道車両や、寝台特急のように運行時間が長い列車の中には、座席定員外の「サロン」や「フリースペース」が存在するものもあります。文字通り「自由に着席できる、みんなのスペース」は、どう使われてきたのでしょうか。

始まりは一等車の展望室

 明治時代の創業時より、鉄道は「人やモノを運ぶもの」でした。輸送力増強が求められ続ける時代の中で、車両内のスペースは大半が座席や立席スペースとなり、「ゆとり」を追求する余裕はあまり顧みられませんでした。

 

 とはいえ、旅行中に気分転換できる場所が欲しいという需要はいつの時代も存在します。その最初といえるのが、戦前の一等展望車でしょう。一等展望車には、列車の最後尾にベランダのようなオープンデッキが付けられており、出発時に手を振ったりできました。

 

 そして、この展望デッキの背後は定員外のフリースペースである「展望室」となっており、ゆったりとしたソファから大きな窓を通じての展望を楽しめました。

 戦後、高度経済成長において庶民の所得が向上したほか、特権階級的な存在がほぼいない社会になったこともあり、こうしたフリースペースはあまり見られなくなりました。強いていえば、1960(昭和35)年に登場した東武鉄道の特急「デラックスロマンスカー」に、レコードの音楽を楽しめるサロンルームが存在したくらいです。 食堂車やビュッフェなど、有料サービスを提供する定員外の車両はありましたが、定員外のフリースペースが設けられることは少なかったのです。

 流れが変わってきたのは1980年代の国鉄末期。1983(昭和58)年に14系客車を改造して登場した欧風客車「サロンエクスプレス東京」と「サロンカーなにわ」は、編成の両端が展望車となっており、定員外のフリースペースとして利用できました。ゆったりとしたソファで自由なひと時を楽しめるフリースペースは、時代の変化を感じさせたものです。

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寝台列車から定期特急へも広まる

 1985(昭和60)年には、寝台特急に定員外の「ロビーカー」が登場しました。それまでの寝台特急は、乗車中は自分の寝台にいるか、連結されていれば食堂車に行くか、それ以外はトイレと洗面所くらいでしか過ごせる場所はありませんでした。カーテンで仕切られただけの寝台車なので、友人と旅行しても夜間は会話も遠慮する雰囲気があり、ソファが並ぶロビーカーの存在はとても重宝するものでした。

 寝台特急へのロビーカー(ラウンジカー)連結は拡大していき、「北斗星」「あさかぜ」などで共用シャワー室が設けられます。豪華車両「夢空間」には飾り窓やバーカウンターがある「クリスタルラウンジスプレモ」が、「トワイライトエクスプレス」には大きな展望窓のある「サロン・デュ・ノール」が連結され、人気を博しました。

 こうしたフリースペースは「駅弁などを飲食するスペース」としても便利でした。解放形寝台車では食べ物の匂いが発せられるため、ほかの乗客への配慮が必要だったのです。

 フリースペースはさらに広まっていきます。1988(昭和63)年には、SL列車「SLやまぐち」の12系客車がレトロ風に改装されました。オープンデッキの展望車も設けられ、かつての展望車のようにフリースペースの展望室から車窓を楽しむこともできました。現在では大井川鐡道が保有していますが、稼働していないのが残念です。

 また、小さなフリースペースも流行りました。寝台特急「なは」「あかつき」は、豪華なレガートシートの一部を区切って小さなサロン室にしていましたし、夜行急行「はまなす」のドリームカーにも、同じようなサロン室が設けられました。

 観光色の強い豪華な特急列車にも、フリースペースは普及します。1990(平成2)年に登場した251系「スーパービュー踊り子」では、子どもが遊べるスペースや、グリーン車専用ラウンジ(ビュッフェに近い)が登場しています。

 また、乗車時間が長い「SLばんえつ物語」では、現在までに3種類のフリースペースが設けられています。中間車ながら大窓を備えた展望車、編成端には子どもが遊べる「オコジョ展望車」、そしてグリーン車の車端部を展望スペースとした「グリーン車展望室」です。