「とりあえず車体に大砲つけとけ!」→国を救う大活躍!? 「M3中戦車」が超有能だったワケ

大戦中のアメリカ戦車といえばM4中戦車「シャーマン」が有名です。しかし同国は参戦直前までまともな戦車を保有していませんでした。そのため、急場しのぎで作られたのが「リー」や「グラント」と呼ばれるM3中戦車でした。

当初は間に合わせで作った車両だった

 現在劇場公開中の『ガールズ&パンツァー最終章 4話』でも登場しているM3中戦車は、砲塔のほか車体の右側部に砲塔よりもはるかに大きな砲を持っている、奇妙な形の戦車となっています。このような形を選択したことには大きな理由があります。慌てて対戦車戦闘を考慮し、急造した結果です。

 1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発したとき、アメリカはまだ旧式のM2中戦車しか保有していませんでした。ポーランド侵攻時、まだ数の上では主力ではありませんでしたが、ドイツ軍はIII号、IV号戦車という、機甲部隊という新たな兵科に適した戦車を保有していました。

 アメリカはまだ大戦にこそ参戦していませんでしたが、1940年6月にフランスが重装甲である自慢の戦車部隊を活かせず敗北すると、機動力と火力に優れた機甲部隊を自国も創設しないと、将来戦争になった場合、苦戦すると判断しました。そして機甲部隊の中核を担う中戦車は、最低でも75mm戦車砲を積まないと、兵器の進化著しいこの戦争は戦えないという結論になりました。

 しかし、当時の基準では十分に大型の戦車砲であった75mm砲を備えた旋回砲塔を急に作ることは、さすがのアメリカでも困難でした。そこで、とりあえずの間に合わせとして試作戦車の車体右側に出っ張りを作り、そこに「M2 75mm砲」を搭載。旋回砲塔には別に37mm砲を装備することで、1941年1月に試作車両を開発、そこからわずか2か月の1941年3月から生産を開始したのがM3中戦車でした。

(広告の後にも続きます)

アメリカ以外の国で大活躍!

 75mm砲を砲塔に収めたM4中戦車が完成するまでの“つなぎ”として開発されたM3中車両を初めて実戦に投入したのは、アメリカ軍ではなくイギリス軍でした。フランスでの戦い以降、欧州大陸を追い出されたイギリス軍は、兵器を現地に置いて慌てて撤退したため、戦車の数が不足していました。その最中に起きた北アフリカでの戦いで、参戦していなかったアメリカはイギリスへM3中戦車をレンドリースしました。

 同戦車は、そのいびつな形にも関わらず、イギリス戦車より優秀だという評価になります。その大きな理由のひとつが、陣地や歩兵攻撃用の強力なりゅう弾が撃てたことです。当時、イギリス軍の戦車は敵の装甲戦力を叩くことに主眼が置かれ、りゅう弾を撃てない車両もありました。

 その欠点を補いつつ、M3中戦車は75mm砲を搭載したため対戦車戦の火力も申し分ない状態でした。車体に無理やり取り付けた戦車砲で、射撃に難があったり、無駄に高い車高のお陰で敵に見つかりやすかったりといった欠点はありましたが、装甲は当時のドイツ戦車を上回っていました。

 また、砲の純粋な火力のみならば、対抗できるドイツ戦車はIV号戦車の長砲身タイプとして1942年3月から投入されたF2型やG型しかありませんでした。しかも数の上ではM3中戦車の方が圧倒的に多数で、イギリス軍では「グラント」の愛称を付けられ、ガザラの戦いやエル・アラメインの戦いなどに参加し「エジプト最後の希望」とも称えられることになります。

イギリス軍は太平洋方面にもこのM3中戦車を投入し、ビルマ方面の戦いで終戦まで使用され、対戦車戦に優れる戦車を持たない日本軍を苦しめることになります。

 ほかにM3中戦車は、ソビエト連邦向けとしてもレンドリースされており、第二次ハリコフ攻防戦やクルスクの戦いに参加しました。アメリカ軍以外での運用が目立つ車両ですが、アメリカ軍に関しても、北アフリカ戦線の勝敗を決定づけるトーチ作戦やその後のチュニジアの戦いなどで使用されています。

 ちなみにアメリカではM3中戦車の愛称は「リー」でした。その足回りやエンジンなどは後継車両であるM4中戦車に引き継がれ、同戦車は合計5万0000両も生産されました。M3中戦車は、そのいびつな形に反し、後に続くアメリカの優れた戦車技術の礎になった車両ともいえます。