“TX級”高速新線があちこちに? 国鉄が何度も挑戦した「開発線」構想とは 「通勤新幹線」のなれの果て

終戦時から人口が増え続けてきた首都圏。国鉄はその解決のため、郊外への高速鉄道を何度となく計画し、頓挫してきました。その中で、最終的に実現へ漕ぎつけた鉄道新線があります。

1960年の「通勤新幹線」の敗北を経て

 戦後の首都圏の急激な人口増加と都市圏拡大に対応するため、1960年代後半の国鉄は、超高速通勤鉄道「通勤新幹線」構想を掲げました。しかし1970(昭和45)年に全国新幹線鉄道整備法が成立すると、新幹線整備は極めて政治的な問題となり、国鉄の判断で新路線を建設することができなくなりました(前回の記事『100km通勤が常識」になるはずだった? “限界状態”首都圏の救世主「通勤新幹線」6路線とは』参照)。

 ただ、増加の一途だった首都圏の人口動態は、1970年代に変化が生じます。都市と地方の所得格差が縮小し、集団就職に代表される地方から都心への転入(社会増)が落ち着いた一方、それまでに地方から転入した人々が東京で家庭を築き、子どもを産んだことによる「自然増」が中心を占めるようになっていきます。

 ちょうどこの頃、終戦直後の「第1次ベビーブーム」世代が出産適齢期を迎え、1971(昭和46)年から1974(昭和49)年まで「第2次ベビーブーム」が到来し、「夢のマイホーム」の需要が急激に高まりました。

 しかし都市への人口集中は地価高騰を招き、都市近郊での住宅取得を困難にします。しかたなく団地などの賃貸住宅に入居するか、「遠距離通勤」を承知で遠方に家を建てるかしかありません。

 そこで人口・世帯の受け皿として期待されたのが「ニュータウン」です。日本住宅公団が1957(昭和32)年に事業着手した香里ニュータウン(大阪府枚方市)に始まり、1960~80年代を中心に各地で大規模ニュータウンが整備されました。

頓挫した「通勤新幹線構想」では新幹線建設とニュータウン建設を「一体的に」進めようしましたが、政治と法制度の両面で高いハードルがありました。しかし、公団など公的主体がニュータウンを開発することになったため、国鉄は新幹線の名を冠しない「新高速鉄道」で、そこと都心を結ぼうとしたのです。

 この頃の国鉄がどのように考えていたか、『運輸と経済』1972年10月号に「国鉄通勤輸送のビジョン」と題された論文が掲載されています。

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国鉄がガチで考えた首都圏鉄道「第2形態」とは

 論文によれば国鉄は通勤輸送対策を、

【第1段階】主要路線の複々線・三複線化「通勤五方面作戦」の完遂

【第2段階】既設在来線の高速化、直通運転拡大を中心とした「現有ネットワークの最大活用」

【第3段階】ニュータウンと都心を結ぶ「新しいネットワークの形成」

というステップで考えていました。

 具体的にどのような路線を想定していたかというと、「建設計画図(試案)」によれば下記の通りです。

(A)高崎方面開発線

(B)常磐方面開発線

(C)東海道方面開発線

(D)東北方面開発線

(E)中央方面開発線

(F)総武方面開発線

 経由地は明記されてはいませんが、路線図から大まかなルートを読み取ると、(A)と(B)は新宿付近でU字型に直結、(C)と(D)は池袋、新宿、渋谷を経由して直結、(E)と(F)は新橋、新宿経由で直結していることが分かります。全ての路線が新宿を経由しているのは、東京駅への一極集中を避ける意図がありました。

 また(A)は東北線と中央線の中間、(B)と(D)は東北線と常磐線の中間にある鉄道空白地域に伸びています。北関東にはあまり私鉄が伸びておらず国鉄へ利用が集中していたため、分散を狙った形です。

 論文はこの「開発線」の収支について、都心と人口60万人規模のニュータウンを表定速度150km/hで結ぶ前提で試算しています。これは当時の東海道新幹線「こだま」の表定速度に匹敵しており、結局のところ「通勤新幹線」をそのまま引き継いだ構想だったことが分かります。