100年続く「環七に鉄道を」計画 戦前にも二つの“第2山手線”構想 ルーツは小田急の父?

「山手線の外側にさらに環状線を作ろう」という構想が、戦前に2つ存在していました。現在の環状道路に沿う形で描かれた壮大なルートはどんなものだったのでしょうか。

時代から時代へ受け継がれる「東京郊外環状鉄道」の系譜

 東京にはいくつかの環状路線が存在しますが、その中でもっとも有名な路線が「山手線」であることに異論はないでしょう。1885(明治18)年に開業し、1925(大正14)年から環状運転を開始。東海道線、中央線、東北線、常磐線、総武線を結ぶジャンクションとしての役割を持ち、かつては貨物列車も山手線(山手貨物線)を経由して各方面に走っていきました。

 戦後、都心の過密ダイヤが問題になると、山手貨物線のバイパス路線として「武蔵野線」が計画され、1973(昭和48)年に東京圏の第2の環状路線として開業します。JR東日本は2008(平成20)年以降、武蔵野線、南武線、京葉線などを「東京メガループ」と呼称し、ネットワーク性を向上させる取り組みを進めています。

 しかし気になるのが、山手線と武蔵野線の間に広がる広大な「環状路線空白地域」です。ここは東京郊外でも最も人口の多いエリアであり、東武線、西武線、京王線、小田急線など多数の放射路線が走っていますが、縦の移動は一度山手線まで出るか、バスを利用するしかありません。

 この空白地域を埋めようと、1986(昭和61)年に大田区、世田谷区、杉並区が都市計画道路環状八号線(環八)沿いに新交通システムを整備する構想を発表し、1993(平成5)年に練馬区、板橋区、北区が加わり「エイトライナー」構想へと発展しました。

東部では1994(平成6)年、江戸川区、葛飾区、足立区が都市計画道路環状七号線(環七)沿いに鉄道を整備する「メトロセブン」構想を発表しています。

エイトライナーとメトロセブンは1997(平成9)年に「区部周辺部環状公共交通」として連携し、実現に向けて調査研究を進めています。2000(平成12)年から国の諮問機関の答申で「検討路線」に含まれていますが、事業費は両路線あわせて1兆円以上と見込まれていることから、実現のめどは立っていません。

 しかし、山手線の外側にもうひとつの環状線を整備しようという構想は、さらに古くからいくつか存在しました。

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「第二の山手線」壮大な計画「東京山手急行電鉄」

 戦前に存在した環状線構想のひとつが1928(昭和3)年に設立された「東京山手急行電鉄」です。同社は前年、大井町を起点とし、戸越銀座、武蔵小山を経て、学芸大学、三軒茶屋、下北沢、代田橋、新高円寺といった環七の近辺を通過し、その先は中野、東長崎、千川、板橋、田端と山手線に近づいて行き、その後は北千住、平井、東大島へ再び膨らんで洲崎(東陽町)に至る路線の免許を取得しました。

 この頃、関東大震災を経て東京の郊外化が急激に進み、東京市(当時)に隣接する北豊島、豊多摩、荏原郡、南足立、南葛飾(東京市と5郡を合計すると現在の23区とほぼ等しくなる)の人口は1920(大正9)年に約118万人、1925(大正14)年に約211万人、1930(昭和5)年に約292万人へと急増しました。

 そこで、これら新興地域に「第二の山手線」を建設しようという声が複数のグループからあがり、山手急行はその最有力と目された鉄道会社でした。しかしこの計画も環状路線である以上、エイトライナー・メトロセブンや環状モノレールと同じく、既存の道路・鉄道との立体交差という課題に直面します。

 山手急行は1929(昭和4)年、西側の経由地を自由が丘、梅ヶ丘、明大前など、免許線よりやや外側に変更しますが、あまりにも壮大な計画に関係各所との調整が追い付かず、工事は進みませんでした。

 同社は1930(昭和5)年に渋谷~吉祥寺間(後の京王井の頭線)の免許を持つ渋谷急行電鉄と合併し、東京郊外鉄道と改称すると、渋谷~吉祥寺間の建設に着手し、同線が開業した1933(昭和8)年に帝都電鉄と改称します。後回しにされた旧山手急行線は目途がたたず、1936(昭和11)年に東半分の駒込~洲崎間、1940(昭和15)年に大井町~駒込間の免許が失効し、大環状路線は夢幻と消えたのです。