自衛隊の鉄道部隊「第101建設隊」が6年で終わったワケ "国鉄は信用ならん" 短命も大活躍

自衛隊にはかつて鉄道部隊がありました。陸上自衛隊が千葉に有していた「第101建設隊」ですが、わずか6年で消えてしまいます。どんな実態で、なぜ短命に終わったのでしょうか。

もともとはストライキ対策だった

 軍隊による鉄道貨物輸送は、現在勃発中のウクライナにおける事案でも活用されています。戦車や大砲を運んだり、ロシアの妨害で船に積みきれない国産穀物を代行輸送したりと、八面六臂の活躍。これに日本の防衛省/自衛隊も注目し、国土交通省の鉄道貨物についての検討会で重要性を訴えるなど、これまでの「トラック輸送重視」から「鉄道回帰」へと大きくハンドルを切りそうな勢いです。

 そんな自衛隊ですが、実は創隊間もない1950~60年代の頃は、陸上自衛隊を中心に、武器輸送の大半を鉄道に頼っていました。当時、主要道路の大半は未舗装で、トラックによる長距離の高速輸送など難しい状態でした。もちろん高速道路もありません。つまり陸上輸送の手段としては貨物列車が最速だったのです。

 陸自は大事な貨物鉄道の「万が一」に備え、専門の鉄道部隊を有していました。それが「第101建設隊」です。

 第101建設隊は1960(昭和35)年2月17日に第1施設群の配下部隊として東京都立川市で産声を上げ、翌月に千葉県の津田沼へ移駐しました。ここは戦前、旧日本陸軍の鉄道第二連隊の本拠地で、訓練用の線路跡地など各施設も温存されていたほか、旧国鉄の研究所が隣接しており支援を受けやすかったのです。

 自衛隊発足の1954(昭和29)年からやや遅れてこの時期に設立した理由はズバリ「労働組合対策」だったようです。この頃の国鉄は左派系の巨大労働組合がスト権や賃上げを叫び大規模ストライキも頻発させて全国規模で列車を止めていました。与党・自民党の国防族議員はこれを憂慮し、有事の時に貨物列車がストで止まれば自衛隊が動けなくなる、として独力で汽車を運行できる部隊の新設を求めたのです。

 当時は戦後初の国産戦車「61式戦車」が正式配備される直前でした。61式は鉄道輸送を前提にして、車体幅を旧国鉄の在来線の規格の左右幅(車両限界)である「3m」にわざわざ合わせて設計した戦車です。「陸自の、しかも国産の主力戦車がストの影響で戦場に届かない」ではシャレにならない、という考えが陸自幹部の間にもあったはずです。

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「第101建設隊」の活動内容と在籍車両は?

 第101建設隊の隊員数は約120名で、「運行隊」「保線隊」の2部隊編成でした。「運行隊」は当時まだ貨物列車の主流だった蒸気機関車の運転・整備を行い、「罐(かま)」内部に石炭を均等かつ素早く放り込む訓練のため、「模型火室」も用意されていました。

「保線隊」は線路の敷設と保守・復旧を担い、橋梁の架設も守備範囲でした。機械力が望めないことを念頭に、レール敷設や杭打用の特殊道具「築頭手」を使った作業など、とにかく「人力」がメインでした。

 装備車両はいずれも「レアもの」でしたが、国鉄のおさがりだった9600形蒸気機関車1両を主力にしていました。蒸気機関車へのこだわりは「いざという時とにかく動ける」こと。電気機関車だと、有事や災害の時に架線が断線すれば動きません。ディーゼル機関車はその点融通が利きそうですが、先の太平洋戦争で日本は石油の確保に散々苦しめられ、その思い出もまだ生々しく残る時代だったので論外だったのでしょう。

 この頃まだ石炭が燃料として全盛の時代。国内一次エネルギー供給量全体の約46%が国内炭で自給できており(1957年度、資源エネルギー庁。カロリー計算)、もし日本列島が海上封鎖されても「国産の石炭で貨物列車を走らせられる」と考えたのかも知れません。加えて当時国鉄では手間のかかる蒸気機関車から、維持・管理が楽でパワフルな電気機関車やディーゼル機関車への転換が急速に進む時期でもあり、余剰の蒸気機関車が多数存在したという背景もあったようです。

 さて、当隊は「Bタンク」と呼ばれる“豆機関車”も1両装備しており、これもかつて三菱重工業茨城機器製作所(茨城県古河市)が使っていた「車輪配置0-4-0」形蒸気機関車を譲り受けたもの。これは4軸のうち「真ん中の2軸」が動輪という珍しいものでした。

 これら車両を用いて隊員は、京成本線沿いにある旧軍の廃線跡に部隊自らが敷設した線路や、津田沼駅の構内を使って運転訓練に励んだのです。もちろん旧国鉄職員も先生として協力しました。