top_line

【 最新ニュースをアプリでサクサク読むなら! 】

日本の資本主義を築いた渋沢栄一と岩崎弥太郎は喧嘩別れしていた!

J-CAST会社ウォッチ

弥太郎が日本の海運を独占するようになると、これを嫌った栄一は、三井物産の益田孝と結んで東京風帆船会社を設立し、三菱に対抗しようとした。これを阻止しようとしての酒宴の誘いだった。

酔いが回った弥太郎は「合本法は成立せぬ。もう少し専制主義で、個人でやる必要がある」(「岩崎彌太郎傳 下巻」)と言い出し、栄一が反論。大激論になり、栄一は芸者を全員引き連れて引き上げてしまった。

弥太郎は新会社潰しに奔走し、東京風帆船会社はほとんど開店休業状態になり、栄一はもろくも敗れ去った。

渋沢栄一のリベンジ

1882(明治15)年、大隈重信を党首とする立憲改進党が誕生すると、政府は反政府政党である改進党の運営資金が三菱から出ていると考え、対抗することを考えた。西郷従道農商務卿は、新たな汽船会社の創設を政府に上申。栄一、益田孝ら三井系、関西財界の大物が参加し、共同運輸会社が誕生した。2年前のリベンジだった。

河合さんは、この会社の実態は「ある意味日本海軍といってもよかった」と書いている。株式組織だが、同社に与えられた政府の命令書には、会社に付与された船舶は海軍の付属とし、戦時や有事の際は海軍卿の命令で海軍商船隊に転じる規定があったからだ。社長、副社長には海軍軍人が就いた。三菱にとって存亡の危機が訪れたのだ。

広告の後にも続きます

両社は激しく競い合い、果てしのない廉価競争となった。乗客の奪い合い、スピード競争を繰り広げた。船の衝突事故も起きた。三菱は徹底抗戦したが、弥太郎が明治18年(1885)に胃がんで急逝。弟の弥之助が社長になり、共同運輸との合併を了承した。こうして日本郵船会社が誕生した。

岩崎家と渋沢家は和解し親戚に

弥之助は海運以外の小さな事業を集め、新会社、三菱社を設立。鉱山、炭鉱、造船、丸の内のビジネス街の建設などに尽力した。一門のための経営ではなく、国家の繁栄を経営理念とした。

栄一にも和解を申し入れ、日本郵船の取締役になってほしい、と依頼した。すでに日本郵船は三菱の傘下に入りつつあった。「この会社が岩崎家のものだと言われぬよう、かつて敵対した栄一に協力を求めたのだ」。

栄一はこれを快諾。その後、いくつも三菱と共同で事業を行った。1922(大正11)年には、跡継ぎである渋沢敬三の妻に、弥太郎の孫を迎えた。親戚になったわけだ。

栄一は回想録の中で、「私は個人として別に弥太郎氏を憎く思ったのではないのだが」と記し、周囲から持ち上げられて弥太郎との対立を余儀なくされたが、死ぬ前には仲直りしたかったようである、と河合さんは見ている。

岩崎弥太郎は後継者の育成に成功し、今も三菱を冠した企業は数多く残っている。合本主義を掲げながらも富豪となった栄一。ところが、後継者の育成に失敗する。長男、篤二は趣味の世界に走り、芸者にぞっこん。妻を家から追い出し、芸者を家に引き入れるとして醜聞になる。そして栄一から廃嫡される。

だが、栄一にも篤二を責める資格はなかった。栄一も妾を複数かかえ、屋敷の女中にも手を出し、隠し子も相当いた。そんな彼が世間に向けては道徳を唱えていたところに渋沢家の問題があった、と河合さんは指摘する。

大河ドラマでは、「英雄色を好んだ」栄一の性癖は、どのように描かれるのだろうか? 今から興味が尽きない。


「渋沢栄一と岩崎弥太郎」
河合敦著
幻冬舎
900円(税別)

  • 1
  • 2

TOPICS

ジャンル