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野村克也監督の教えを胸に代打で勝負強さを発揮 大野雄次/パンチ佐藤の漢の背中「01」

週刊ベースボールONLINE

『ベースボールマガジン』で連載しているプロ野球選手の第2の人生応援プロジェクト「パンチ佐藤の漢の背中」。「現役を引退してから別のお仕事で頑張っている元プロ野球選手」のもとをパンチさんが訪ね、お話をうかがう連載です。今回は大洋、巨人、ヤクルトで勝負強い代打の切り札として活躍し、現在は都内で「鰻・和食料理 大乃(おおの)」を営む大野雄次さんをお訪ねしました。

代打で結果を残す秘訣は“準備”にあり



大野雄次氏(左)、パンチ佐藤

 1987年、26歳で大洋に入団したときは、“子連れルーキー”と話題になった。社会人野球出身とはいえ当時、その年齢でプロに飛び込む選手は珍しかった。

 巨人を経て、ヤクルトへ移籍。“野村再生工場”で代打の切り札として、96年にはシーズン2度の代打逆転満塁弾。通算本塁打27本の記録より、記憶に残る“代打男”だった。

パンチ それにしても大野さんは、勝負強かったですよね。代打に出て結果を残す秘訣、勝負強さのワケはどこにあったのでしょうか。

大野 結果を残すのは、やはりいかに準備ができているかだと思うんだ。野村(克也=当時ヤクルト)監督の教えでも、「準備がすべてだ」とね。だから当然俺も、代打要員として準備は怠らなかった。ベンチにいるときから試合の中に入っていて、(相手の)ブルペンと試合の流れを逃さず見ていく。そして、ブルペンで左(投手)が動き出したら、自分も動き出す。左のペースが上がっていけば、出番に備えて自分も気持ちをどんどん、どんどん、上げていく。

パンチ 大田卓司(元西武ほか)さんなんかもベンチにどっかり座っているイメージですけど、「俺はなんにもしてねえよ」と見せて、実は裏でバットを振っていたり、試合の中にグンと入っているんですよね。

大野 俺は、バットを振らなくてもバッターボックスに行けるタイプだったね。

パンチ 僕は5年しかプロでやっていないですけど、最後の年に分かりました。バットを振っていなくても、ベンチでちゃんと試合に入っていれば、打てるんですよね。ベンチでじっとしていても、「ここですか」っていうときに、監督とバチっと目が合う。4年目までは、もう1回の裏からバットを振っていたんです。

大野(笑)。金森(栄治=元西武ほか)さんが、そのタイプなんだ。ブンブン振って、大汗かいて出ていくほう。俺は気持ちを作っていくタイプ。

パンチ 巨人に行かれたときは、何か独特なものを感じましたか?

大野 俺、92年はそこそこ打って、結果も残したんだよ。だけど、ここで俺がヒットを打てば首位になれるってときに、いい当たりの三塁ゴロがホームゲッツーになってね。シーズン後、契約更改の席で査定の担当者に言われたんだ。「あの試合で、今シーズンが決まった。だから、今回の契約はこの額だ」って。本当、紙一重の当たりだった。当時監督だった藤田(元司)さんも、「惜しかったなあ」と言ってくれた。抜けていれば当然、ヒーローだった。あれは忘れられないね。俺、一塁でセーフになろうと思って必死に走り込んだんだけど、アウトになって。スタンドの歓声が、落胆に変わってねえ。

パンチ 93年、出場1試合に終わられたのは、何かあったんですか?

大野 長嶋一茂がヤクルトから来て、天秤にかかって俺が落とされたから。

パンチ そのとき腐らずにいるために、どうしました?

大野 いや、ファームでホームランをボンボン打ってね、大森(剛)といくらホームラン合戦をやっても、お呼びがかからなかった。で、呼ばれても1打席しかもらえなくて、二塁フライでまたファーム。さすがにそこで、気持ちが切れた。

パンチ ああ、それは切れますね……。

得意の真っすぐについていけなくなり、引退を決意した



ヤクルト時代は代打の切り札として勝負強さを発揮

大野 それで早い時期に、藤田さんが「来年契約してくれないみたいだけど、どうする?」って言ってくれてね。「現役を続けます」と言ったら、藤田さんが西武の森(祇晶)監督に話をしてくれた。そこへ野村さんが、「最近、大野見てないけど、どうしたんですか」って藤田さんに声を掛けてきたらしい。藤田さんが「来年から西武に行くことになった」と答えたら、「それはダメです、ウチにください」と。

パンチ なるほど。

大野 その晩、すぐ藤田さんから「野村が欲しいって言ってるけど、どうする?」と電話があった。俺はセの野球しか知らなかったから、「申し訳ないけどヤクルトでお願いします」と。思えば俺、野村さんが監督になった年あたりに、ヤクルト戦でかなり打っていたんだよね。

パンチ そんな経緯があったんですか。やっぱり見ている人は、見てくれているんですねえ。それで、あの勝負強さを発揮されて。引退のきっかけというか、「ここまでだな」と思ったのは、どんなときだったんですか。

大野 俺が引退したのは、98年。その前年、97年の5月だったかな、風疹にかかって、40度の熱が5日間続いたの。それで2週間くらい、休んだのかな。そうしたら筋肉が落ちちゃって、完全には戻らなかった。

パンチ それはつらいですね。

大野 その年はずっとファームにいたんだけど、一軍はペナントレースで優勝してね。俺、日本シリーズには呼ばれたの。95年の日本シリーズの経験があったから。でも、そこで結果が出なかったから、もう自分でも「限界かな」と思って。それが、38歳のときでね。シーズンが終わるころ、野村さんに呼ばれて、「ワシはこれで引退するけど、お前はどうするんだ」って聞かれた。だから、「監督と一緒にヤクルトを辞めます」って答えて、引退したの。

パンチ そこで「もうひと踏ん張り、別の球団で」と思わなかったのは、筋肉が落ちて、実際どこかに限界を感じたからですか。

大野 俺、真っすぐが得意だったじゃない。そもそも真っすぐにしかタイミング合わせていなかったしね。でも、その真っすぐについていけなくなっちゃった。かといって、変化球狙いで行くタイプじゃなかったから。

パンチ 田淵(幸一=元阪神ほか)さんが「入った」と思ったホームランが、入らなかったみたいなもので。食い込まれるようになってきたなって。それは“目”なんでしょうか、体の反応なんでしょうか。

大野 当然目もそうだし、体の反応イコール風疹の高熱によって、筋肉が落ちたのがすべてだったと思うんだよね。いかんせん、バッティングの感覚が狂っちゃって、もうダメだなあと思った。

<「2」へ続く>

●大野雄次(おおの・ゆうじ)
1961年2月2日生まれ、千葉県出身。君津商高から専大(中退)、川崎製鉄千葉を経て、ドラフト4位で87年大洋に入団。92年巨人、94年にヤクルトへ移籍。「野村再生工場」で代打の切り札として活躍し、95年の日本シリーズ第1戦では代打で初打席本塁打。96年には「代打逆転満塁本塁打」を同一シーズンで2回も記録した。98年限りで引退。通算成績は457試合出場、打率.245、27本塁打、116打点。現在はJR田町駅前で「鰻・牛タン料理・酒・喰い処 大乃」を営む。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=椛本結城

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