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【背番号物語】ロッテ「#54」前任者が「温めておいた」“魂のエース”の象徴は助っ人の系譜に?

週刊ベースボールONLINE

魂の継承



背番号「54」でロッテのエースの座に就いた黒木

 近年こそ50番台の背番号を主力の選手が着けるのは珍しい光景ではないが、もともと50番台は一般的に指導者の背番号で、今の70番台から90番台の背番号に近い印象だった。やがて選手の数が増えたことで、指導者たちの背番号が大きくなり、選手が50番台を着けることが一般的になっていく。だが、主力は小さいナンバーという傾向は変わらず、50番台は選手の“末席”というネガティブなイメージはつきまとった。事実、ロッテで1995年に「54」を与えられた新人は、「期待されていないのか」と落ち込んだという。その若者の名は黒木知宏。千葉へ移転したロッテで“ジョニー”の愛称と気迫の投球でファンに愛され、チームの勝利だけでなく、ロッテが千葉に定着することにも貢献した”魂のエース”だ。

 ただ、このときはドラフト2位で入団したばかりで、もちろんプロの実績はなく、ひとりの多感な若者に過ぎなかった。そんな黒木に「俺が54番を温めておいた。だからジョニーは、きっと活躍できる」と声をかけたのが、打撃投手の石田雅彦。石田も1年目から「54」だった左腕で、ドラフト1位での入団だったから、期待されていないはずがなかった。だが、故障に苦しみ、一貫して「54」を背負いながら、一軍では2試合の登板のみ。94年オフに役割を打撃投手に変えたばかりだった。

 そんな石田の言葉は“魔法の言葉”だったのかもしれない。もともと「11」を希望していた黒木だったが、1年目から「54」で即戦力となって、97年からは5年連続2ケタ勝利。13勝で最多勝に輝いた98年には、チーム16連敗で迎えた7月7日のオリックス戦(GS神戸)で最終回に同点2ランを浴びてマウンドに崩れた姿でファンの心を震わせた。最後は故障に苦しみながらも2007年まで現役を続けた黒木は、背番号の変更を打診されるたびに拒否。最後まで「54」を背負い続けている。

 故障で活躍できないまま現役を終えた石田が「温めておいた」背番号を輝かせて、最後までこだわり続けた黒木。背番号の継承で語り継がれるエピソードは少なくないが、もっとも美しい逸話のひとつと言えるだろう。背番号を自らの象徴にまで昇華させた選手が引退すると、しばらくは欠番となるケースは多いが、この「54」は黒木から後継者へと受け継がれる物語が見たかった背番号だった。だが、黒木の引退で3年間は欠番に。これで系譜の流れが変わる。

いぶし銀の出世ナンバーにも



現在は助っ人のレアードが「54」を背負っている

 11年に黒木と同じ右腕の藤谷周平が後継者となるも、故障もあって一軍登板のないまま14年オフに引退。翌15年に来日2年目のデスパイネが継承するも、17年からはソフトバンクの「54」となり、移籍1年目から本塁打王、打点王の打撃2冠に。その17年シーズン途中からロッテの「54」はソフトバンク、オリックス、楽天でプレーした経験のあるペーニャが着けるも、そのオフに退団。1年の欠番を挟んで、19年からはレアードが背負う。レアードも日本ハム時代の16年に本塁打王となっていて、助っ人、それも投手ではなく、長距離砲がリレーする系譜へと変貌している。

 一方、もともとロッテの「54」は、前述したように指導者のナンバーだった時代にも、ソフトバンクの「14」で紹介した木塚忠助、中日や日本ハムの監督としても印象を残した近藤貞雄、“野球名人”と呼ばれた坪内道則らプロ野球のレジェンドが1960年代から70年代にかけてリレーする背番号だった。ただ、当初は選手が着けていて、53年に外野手の山田利昭が初代となるも、6試合の出場で移籍。57年には戦前の阪神で“サイン盗み名人”の異名を取った名二塁手の本堂保弥が現役ラストイヤーに3代目となる。

 選手の背中に戻ったのは73年に「64」から変更した捕手の阿部憲一からで、阿部の引退で75年に継承した森山学は一軍出場なし。1年の欠番を挟んで、78年に新人の佐藤健一(兼伊知)が後継者となった。時間はかかったものの、着実に出場機会を増やしていった佐藤は84年に「23」となり、86年には遊撃の定位置をつかむ。引退してからも指導者として長くロッテを支え続けた功労者だ。2年の欠番を挟み、86年に継承したのが石田だった。

【ロッテ】主な背番号54の選手
本堂保弥(1957)
佐藤健一(1978~83)
石田雅彦(1986~94)
黒木知宏(1995~2007)
レアード(2019~)

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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