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クロマティ、ホーナーが「大リーグでもスターになれる」と絶賛した大洋の右腕・遠藤一彦

週刊ベースボールONLINE

福島県出身の投手で唯一の沢村賞



大洋で先発、抑えに活躍した遠藤

「巨人史上最高の助っ人」と呼ばれたウォーレン・クロマティが「大リーグでもスターになれる」と絶賛し、ヤクルトで「赤鬼旋風」を巻き起こしたボブ・ホーナーも「メジャーでも通用する」とうなった右腕がいる。元大洋のエース右腕・遠藤一彦だ。

 福島県出身の遠藤は学法石川高に進学。身体能力が高く、2年時にはセンターのレギュラーを務めて控え投手も務めた。3年時に「四番・投手」で県大会決勝に進むが、1対2で双葉高に惜敗。甲子園は届かなかった。当時はプロ野球選手になるのは考えられず、東海大に進学。機械工学を学び、エンジニアになるのが夢だった。

 大学で本格派右腕としての評価を高める。在学中は首都大学リーグに5度優勝し、大学3年の全日本選手権でも優勝。リーグ通算47試合登板、28勝5敗、防御率1.11で大洋(現DeNA)にドラフト3位で入団する。

 プロ1年目の1978年。別当薫監督から春先に下手投げへの変更命令が出たが、二軍投手コーチだった堀本律雄から上で投げるように進言される。ここでアンダースローになっていたら、その後の遠藤の活躍はなかっただろう。シーズン終盤に一軍昇格し、9月10日の中日戦(横浜)でプロ初勝利をマークする。入団当初はカーブしか決め球がなかったが、入団2年目の79年に最大の武器となるフォークを習得。シュート気味に落ちる軌道とスライダー気味に曲がりながら落ちる軌道の2種類のフォークを使い分けることで投球の幅が広がった。同年は前半戦が先発、後半戦は抑えとして12勝12敗8セーブとフル回転。80年は守護神に抜擢されて16セーブをマークする。

 先発に専念した82年から投球回数が5年連続200イニングを超え、6年連続2ケタ勝利と不動のエースになる。83年は18勝9敗3S、186奪三振、防御率2.87で最多勝、最多奪三振、福島県出身の投手で唯一の沢村賞を受賞。84年も17勝17敗、208奪三振で2年連続の最多勝、最多奪三振を獲得した。チームが低迷して打線の援護に恵まれないことも多かった。優勝争いできる球団だったら20勝を軽く超えていただろう。

 この遠藤を認めていたのがクロマティだった。対戦成績を見ると、88打数27安打、打率.307、3本塁打。苦手にしているわけではなかったが、抜群の制球力と球の速さ、鋭い落差のフォークに手を焼いていた。クロマティは安打を打ったときに「チョン、チョン」と人差し指で頭を指すことがあったが、遠藤がクロマティを三振に取った際に「お返し」とばかりに右手の人差し指で頭を指したことも。クロマティはニコリと笑った。互いが好敵手として認め合い、高度な頭脳戦が繰り広げられていた。

カムバック賞も受賞



大きな手を生かしたフォークも武器だった

 球界を代表する右腕として活躍していた最中、野球人生に試練が訪れたのは87年10月3日の巨人戦(後楽園)。遠藤は5回表に三塁への走塁中に右足アキレス腱を断裂する。翌88年にリハビリを経て一軍復帰するが、5勝12敗で防御率4.76と本来の状態には程遠く、連続2ケタ勝利が6年で途切れた。しかし、このままでは終わらない。10年ぶりに守護神に転向した90年に6勝6敗21Sの成績を挙げ、カムバック賞を受賞した。

 現役最終年の92年。引退試合となった10月7日の巨人戦(横浜)は「横浜大洋ホエールズ」としても最後の試合でもあった。横浜スタジアムは遠藤の「最後の雄姿」を見ようと超満員に。140キロを超えるストレートとフォークで2回無失点と有終の美を飾り、引退セレモニーでは大洋を共に長年支え続けた斉藤明雄とともに号泣して抱き合った。

 通算460試合登板で134勝128敗58セーブ、防御率3.49.遠藤が在籍した15年間でリーグ優勝の歓喜は一度もない。だが、誰よりも大洋を愛し、身を削って投げ続けてくれたエースだった。

写真=BBM

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