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アニメ映画「ジョゼと虎と魚たち」を読み解くカギは“登場人物たちの頭の位置”にあり【藤津亮太のアニメの門V 第66回】

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アニメ映画「ジョゼと虎と魚たち」を読み解くカギは“登場人物たちの頭の位置”にあり【藤津亮太のアニメの門V 第66回】

※以下の原稿は映画の重要なシーンに触れています。

『ジョゼと虎と魚たち』は、登場人物たちの頭の位置を見るべきだ。

実景を踏まえつつも色収差があることで柔らかな雰囲気に見える背景を横長に切り取るシネマスコープ。その切り取られた空間のどこに、主人公たちの頭が置かれているか。
特にその上下の位置関係。それがこの映画が語ろうとするドラマをなにより雄弁に物語っている。

主人公のひとり、恒夫は大学生。ダイビングショップでアルバイトをしながら、メキシコへの留学資金を貯めている。
おおらかで優しい青年だが、言葉の端々から孤独感を抱えていることが伝わってくる。

もうひとりの主人公はジョゼ。本名はクミ子だが、愛読書であるサガンの小説からとった名前で呼ばれている。彼女は生まれたときから足が不自由で車椅子を利用している。
彼女の面倒をみている祖母チヅは、外は危険だからとジョゼを表に出したがらない。それは過保護な愛情で、チヅとジョゼが住む小さな家は、まるでゆりかごのようだ。
そんな恒夫とジョゼが偶然出会ったことから物語は始まる。

この映画では、ロング・ショットで恒夫とジョゼをとらえる時に、ジョゼの頭の高さに水平な線を置くレイアウトが頻出する。
例えばジョセが、海に行こうとひとりで勝手に家からでかけてしまうシーン。祖母チヅからジョゼの相手をするようバイトを頼まれている恒夫は、ジョゼを探しにでかける。そして踏切を渡ろうとしている彼女を見つける。
ジョゼを引き止める恒夫。その後、カメラは2人の後ろ姿をロング・ショットでみせる。そこでは踏切の遮断機のバーは丁度、ジョゼの頭の高さの位置にある。
そしてそのバーはそのまままっすぐ画面左に伸びて、恒夫の腰の前あたりを通っていく。遮断器のバーが、2人の頭の位置の違いをくっきりと際立てている。
このような登場人物の頭頂から横に伸びる“水平線”はさまざまなカットで見ることができる。

続いて駅に着いた2人が会話をするシーン。ここで恒夫は初めてしゃがみ込んで、ジョゼと会話を交わす。初めて水平に交わる視線。この時、2人はタイルの貼られた壁の前にいる。
ちょうど2人の頭の高さのタイルだけが、上下のタイルと色違いになっており、2人の頭の高さがここで一瞬揃ったことを強調する。

このようにこの映画は、2人の頭の高さが違うこと、同じことを丁寧に見せていく。
頭の高さが違うということは見ている風景が違うこと。視線も水平には交わらないということ。そんな風景が、視線がふいに重なり合う時が訪れる。

だが、駅で同じ高さに頭が並んだとしても、それはまだいっときのことだ。
海へ向かう列車の中で、初めて見る風景にはしゃぐジョゼ。恒夫はそれを優しく見守ってはいるが、光の中のジョゼに対し、恒夫は影のなかにいる。
車窓の影が斜めに降りて、光と影の境界線がそのまま2人の世界の違いを現す。

この海へ行くエピソードの山場で、ジョゼは車椅子から投げ出され、それでもなお砂浜を這ってまで波打ち際まで進もうとするところだ。
このシーンでジョゼの姿をまざまざと見せ、ジョゼの思いを強調するため、自宅ではジョゼが室内を移動する様子をあまり見せないように描いていた。

そんなジョゼを、恒夫は担ぎ上げ、そのまま海へと足を踏み入れる。恒夫はそこでジョゼを抱きかかえ直すので、2人の頭の高さは限りなく近づく。これがここの海のエピソードのゴールであり、ここが2人のスタート地点となる。

この時2人が訪れた海は、終盤でもう一度登場する。季節は冬になり、ジョゼは恒夫に最後のバイトとして連れて行けと命じたのだ。この時、2人の気持ちはすれ違っている。
この時、二人の頭は同じ高さになることはなく、カットごとに砂浜と海の境目、山の稜線、海岸の車止めが、ジョゼの頭の高さにレイアウトされ、2人の視線の距離がむしろ強調される。それは序盤の海とはっきりしたコントラストを描いている。

そして、この後、恒夫はジョゼを守ろうとして交通事故にあう。恒夫は重傷を負い、右足がこれからずっと不自由になるかもしれないという状態になる。
来春に決まっていたメキシコへの留学はナシとなり、自分を支えてきたものがなくなった、恒夫は無力感に襲われる。

この時、恒夫の胸中に響くのは、冬の海でジョゼが言った、手を伸ばしても届かないものがある私の気持ちがわかるか、という言葉だった。
ジョゼの前で思わず、「足が動かなくなる不安」を語ってしまった自分は、ジョゼの気持ちを理解していなかった、という気持ちが恒夫の中に渦巻くことになる。

ここで一度、恒夫について考えなくてはならない。留学がキャンセルになってしまった恒夫に対し、教授はまた次のチャンスがあるとフォローする。だが恒夫は、留学できても、メキシコの海に潜れなくては意味がないんだ、と感情を爆発させる。
どうして恒夫はメキシコの海に潜ることにこだわるのか。

作中では、それは「クラリオンエンゼルフィッシュの群れを見るため」と説明されている。
小学生の時、近所のアクアショップで出会ったクラリオンエンゼルフィッシュ。恒夫はそれを見に毎日アクアショップに通ったという。
そして恒夫は、クラリオンエンゼルフィッシュは本来群れで泳ぐことを知り、それが見られるメキシコの海を訪れることを夢見るようになったのだ。

一方で恒夫は子供の頃、両親が離婚しているとも語っている。また彼は重傷を負った後に、母親との電話で「たいしたことがない」とお見舞いを断ってもいる。仲は悪くはないのだろうが、恒夫にとって「家族」というのはどうも安らげる空間でもなさそうだ。

つまり、ひとりでクラリオンエンゼルフィッシュを見つめている子供時代の恒夫というのは、自分の孤独をそこに投影していたのだ。そしてメキシコの海は、その孤独が癒やされるであろう「約束の場所」として彼の心のなかで特別な位置を占めていたのである。

こう考えると恒夫がジョゼについて「あいつ、ひとりぼっちなんだ」といった台詞や、クラリオンエンゼルフィッシュの話を聞いたジョゼが恒夫に、その魚は恒夫が会いにきてくれたから、淋しくはなかったはずだ、と語る台詞も、収まるべきところに収まってくる。
恒夫とジョゼには「海」をキーワードにした孤独があり、それが深いところで2人を繋いでいる。

しかし、ジョゼと恒夫は見ている世界が違うのも事実。
あの時、自分の孤独をクラリオンエンゼルフィッシュに投影していたように、恒夫はジョゼにも自分の孤独を投影しているだけではないのか? 恒夫はジョゼの視線をちゃんとジョゼの視線として理解しているのか?
本作はそういう問いかけでもって、恒夫を追い込み、そこでようやく恒夫は、ジョゼの視線を理解するのである。

「わかり得ない他人をわかり得ないものとして尊重する」という距離感のコミュニケーションがある。それはそれでひとつの人間関係のあり方だ。
だが恋愛となると、そうはいかない。互いの人生をぶつけ合い、その衝撃の中から火花のように生まれる相互理解がどうしても必要になる。恒夫は自由のきかないベッドの上で、それを体験したのだ。

一方、生きる縁を失った恒夫が立ち直るきっかけをつくるのはジョゼである。それは恒夫という存在によって、ようやくゆりかごの外へ出ることができたジョゼが、恒夫という人間とイーブンになるためには必要な過程だ。
だからこの終盤の展開は、恒夫の再起の物語に見えて、ジョゼが自分の世界を確立する過程を見せるほうに主眼がある。二人が互いに対等な関係を取り結ぼうとするのなら、ジョゼは精神的な意味でひとりで生きられるようにならなくてはならない。

過保護に育てられたジョゼは、自尊感情が低い。だから精神的にひとりで生きることができるということは、自尊感情を高めてアイデンティティを確立していくという切り口から描かれていくことになる。

ジョゼの自己確立はまず、舞との口論から始まる。
舞は恒夫と同じダイビングショップで働いている。彼女は恒夫のことが好きだが、沈んでいる恒夫を励ますことができるのはジョゼだけと思い、ジョゼの家を訪れる。家の中から出てこないジョゼに向かい、引き戸の前で、自分がいかに恒夫のことを知っているか、言葉を投げつけるようにしゃべる舞。
すると、引き戸が不意に開く。そこには、舞と同じ視線の高さのジョゼの顔がある。ジョゼは台の上にのっているのだ。

こうして舞と対等な視線で言葉の応酬を繰り広げたジョゼは次に、一度はしまい込んだ画材を取り出して紙芝居を作り始める。
それまでもジョゼが絵を描くことを趣味にしているという描写はある。図書館でホワイトボードに絵を描いてほめられたこともある。

ジョセが絵が(ある程度は)うまいという形でわかりやすく示されているが、大事なのはジョゼが「自分の世界を持っている」ということ。
そしてそれによって「世間との距離が取れる」ということを表していくための“小道具”だ。絵そのものがうまいかうまくないかは本質的なところではない。ジョゼの「絵」というのは、彼女のアイデンティティのあり方が視覚化されたものなのである。

そして自己確立の過程は、ジョゼにとって恒夫との別れの予感を孕むものでもあった。
それは彼女が描いた、恒夫との関係を投影した紙芝居の内容からしてそうだ。自分を世間に対して開いてくれた恒夫に対して、同じだけの働きかけを“返して”してイーブンになること。そうしたらそれぞれの道を歩いていけばいい。
それがジョゼの出した結論だった。退院が決まったと告げる恒夫の言葉に、ジョゼの手が動揺したような動きを見せるのは「その時がきた」と思ったからだ。

だからこそジョゼは、自分がひとりで生きていけることを確認するため、かつて恒夫と訪れた動物園を訪れる。
ジョゼにとってトラはこの世で一番怖いもの。以前ジョゼは、怖くて恒夫の腕にすがりついていた。
だが、今度は違う。一番怖いトラに、たったひとりで対峙しようとする。それは「これを乗り越えれば何も怖いものはない」という、ひとりで生きていくための最終試験なのである。

本作はつまり「ゆりかごの中にいた人間が自己確立する」物語であり、「自分の孤独を投映するのではなく、他人の孤独を理解する」物語である。そうした変化を個人にもたらすには、友情よりもさらに抜き差しならない、世間的には「恋愛」としか呼びようのない人間関係が必要だったのである。
かくしてラストシーンで、冒頭の偶然の出会いとよく似た形で2人は再会を果たす。しかし、そこでは2人はであったばかりの夏のころとは、精神的に大きく変化しているのである。

ジョゼが暮らしたゆりかごのような家は解体され、エピローグで二人は、満開の桜の下のベンチに座っている。
もちろんお互いの頭は自然と近い位置にある。そしてそしてジョゼが描いた2人の後ろ姿には背景が描かれていない。車椅子に座ったジョゼの頭の位置にも線はひかれていない。
ただただ未来のように真っ白な画用紙が広がっているだけだ。

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