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地元九州が生んだ俊足巧打の遊撃手・川崎宗則

週刊ベースボールONLINE

抜群のムードメーカー



スピード感あふれるプレーが魅力だった川崎

 3月26日、ソフトバンクは未契約だった川崎宗則の退団を発表した。地元・九州が生んだ俊足巧打の遊撃手だった川崎。本多雄一との二遊間コンビは息ピッタリで一、二番としても機動力抜群、攻守にチームを引っ張った。はつらつとしたプレーと明るい性格でムードメーカーとなり、愛称は“ムネリン”。さわやかなルックスで女性人気も高かった。

 子どものころからホークスファンで、好きな選手は内之倉隆志だった。小学校の文集には「ダイエーホークスに1位指名されるのが夢」とも書いている。鹿児島工高時代から遊撃手。最高成績は2年生夏の県大会ベスト8と、甲子園には届かなかったため、全国的には無名の選手だった。しかし、当時から足の速さとボールをとらえる打撃センスは地元で注目されており、“薩摩のイチロー”を略した“サツロー”とも呼ばれていたという。


新人時代の川崎

 2000年、ドラフト4位でダイエー(現ソフトバンク)入団。03年に小久保裕紀の長期離脱もあって三塁に定着し、初の規定打席もクリアして打率.294、2本塁打、51打点、30盗塁をマークしてリーグ優勝、日本一に貢献。04年からは遊撃を任され、全試合に出場して盗塁王と最多安打を獲得。同年限りで先輩の井口資仁がメジャーに移籍し、以後、内野陣の中心となっていく。

 10年には広角打法に磨きがかかり、200安打にあとわずかの190安打。打率は日本時代の13年間で3割超えが3度、通算でも.292とハイアベレージを残した。

 06年は第1回WBCの代表に選ばれ、正遊撃手として活躍。特に、決勝のキューバ戦の9回表、イチローのヒットによる二塁からの本塁生還は、捕手のブロックをかいくぐって右手をねじ込み、2点差とする貴重な追加点を奪う好プレー。「神の右手」と称賛された。09年の第2回WBCでも控えながらしっかりチームを支え、世界一連覇に貢献している。

 03年の日本一以降、ホークスは長らく日本シリーズ出場まで至ることができなかった。ポストシーズンの壁に長い間、はね返されてきたのだ。その呪縛が解けたのが11年。クライマックスシリーズを勝ち抜いた際に川崎、小久保、本多ら生え抜き選手たちが見せた涙に、ファンもまた涙を流す。念願かなって出場した日本シリーズも制し、8年ぶりに頂点に立った。

 自他ともに認めるイチローマニアでもあった。背番号「52」も「51」のイチローに続くという意味が込められていた。その思いが、川崎に海を渡らせた。11年オフ、マリナーズに所属していたイチローとのプレーを夢見て、マリナーズとマイナー契約。翌12年途中にイチローがヤンキースへ移籍したため約半年間しかともにプレーできなかったが、13年にイチローが日米通算4000安打の大偉業を成し遂げた試合で、対戦相手(ブルージェイズ)の二塁手として居合わせるなど、強運(?)を発揮した。

 その後、16年まで米球界に所属し、17年にソフトバンクに復帰。4月28日に一軍登録されると、同日のオリックス戦(京セラドーム)で、南海ホークスの復刻ユニフォームを身にまとい「一番・二塁」で即スタメン出場を果たした。1対1の同点で迎えた7回の第4打席で中前打の復帰初安打で福田秀平の決勝アーチを演出し、守っても4回二死一、二塁の場面で中前に抜けそうな打球を二塁封殺に仕留める“美守“を披露。試合前のミーティングで「Have fun(楽しめ)!」とナインに呼びかけ、攻守で存在感を示していた。

■川崎宗則 コメント
「昨年の夏場以降からリハビリを続けてきましたが、同時に自律神経の病気にもなり、身体を動かすのを拒絶するようになってしまいました。このような状態で野球を続けるのは、今の自分には考えられません。悩んだ末、この度、ホークス球団と協議して自由契約という形で、野球から距離をおいてみようと決断しました。

 川崎宗則が元気でプレーする姿を楽しみに待ってくれている皆様には、本当に申し訳ない決断ですが、今は環境を変えて、じっくりと心と体の回復につとめます。

 たくさんの皆さんに心配をかけたことを申し訳なく思っています。同時に、たくさんの皆さんに応援して頂いていることに心から感謝しています。本当にありがとうございます」

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