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【石田雄太の閃球眼】イチローのあふれ出る滋味

週刊ベースボールONLINE


5年半ぶりにマリナーズと契約したイチロー

 高校時代、通い詰めたスパゲティの店がある。その店のソースの味は、今までに食べたことがない衝撃的な味だった。胡椒の効いたピリ辛で、甘みもあり、コクもあって、ヤミツキになる。ラードで炒めた極太麺にトロっとしたソースを絡めると、手は止まらない。

 ここまででピンときた名古屋人は少なくないだろう。ご存じ、あんかけスパゲティのことである。ただし、そんな名前がまだ世の中になかった時代の話だ。先日、ナゴヤドームでオープン戦の取材をした帰り道、ふと思い立ってその店に寄ってみたら、店に入るなり声を掛けられて、仰天した。

 なつかしい、あの店主だった。

 久しぶりだというのに、店に入っただけで名前を呼ばれたことにも驚いたが、もう還暦を過ぎたであろう白髪の店主が今も厨房に立っていることにも驚いた。突然の再会にすっかり興奮して、高校時代、よく食べていた今はないメニューを作ってくれと無茶ぶりしたら、店主は「よっしゃ、作ったろか」と言って、再現してくれた。記憶にあった尖がった味とは微妙に違っていたが、それはお互いが歳を重ねたからこそ感じられる、滋味深い、やさしい味だった。

 歳を重ねれば尖がった味は失われても、滋味はあふれ出てくる。

 イチローもそうだ。

 過去に例がないほど停滞したFA戦線にあって、ようやくメジャー契約にこぎつけたマリナーズへの入団会見で、シアトルを離れたときとの違いを問われたイチローはこう言った。

「いろいろなことを経験したこの5年半、耐性が強くなったと思います。選手としての能力に関しては、今はそれが数字で分かる時代なのでみなさんの方がよくご存じだと思いますけど、耐える能力に関しては明らかに5年前とは違うと言えると思います」

 数字で分かる時代、というのはイチローなりの精一杯の皮肉だったと思う。44歳でプレーする選手は、43歳のときよりも確実に数字が落ちると決めつけられていたからだ。43歳でプレーする選手は42歳より、42歳なら41歳より……このロジックは、何歳ならそう判断されなくなるのだろう。事実、マーリンズの1年目、41歳のシーズンに打率.229に終わったイチローは、打数こそ減らしたものの42歳のシーズンには、.291まで数字を上げてきた。このときの現象が“V字回復”と言われていたことについて、イチローはこう言っていた。

「V字回復って言われてるんですか(笑)。V字……でもUよりはいいか。だってUはVより底辺が長いでしょ。そう考えたら悪くないですよ。長い間、野球やってたら、Vくらいはあります。Uだったら問題だし、Lのまま終わっちゃう可能性だってありますからね。V字、いいじゃないですか」

 数字は真実の姿を物語る。しかし、真実の姿は数字だけで語ることはできない。どんな緻密なデータも、選手のその日の朝の夫婦喧嘩までは反映できないのだ。人間がプレーする以上、コンディションが変動するのは当たり前だし、膨大なデータから傾向をつかもうとしても限界がある。まして、イチローがプロ野球選手として、いや、もっと前から野球に取り組んできたその時間の濃密さを思えば、どんなにたくさんのデータを集めても、イチローに当てはめることなどできっこない。

 神戸のほっともっとフィールドでひとり、練習を続けてきたイチローは、メジャーからのオファーがあると信じて準備を続けてきた。彼はそのときの心境を「泰然」という言葉で表現したが、それを象徴していたのが、3月に入ってからの練習だった。バットを振るという準備は思い切り引っ張らないとできないという信念のもと、練習ではフルスイングをしてボールをライトスタンドへ叩き込んできたイチローが、3月になって、レフト方向へ打つ練習をメニューに加えた。一人で練習しながらも、すでにオープン戦に入っていたメジャーのスプリングトレーニングをイメージして、より実戦的なバッティングを意識していたのである。

 これが滋味というものだ。

 44歳という年齢から生まれる先入観を取り払って、目の前のイチローのプレーを見てほしい。尖がった味には迫力があるが、やさしい味には魅力がある。数字という結果は尖がってなければ出せないと、いったい誰が言い切れるのだろう。歳を重ねたイチローが、今シーズン、どんな滋味を醸し出すのか――今から楽しみでならない。

文=石田雄太 写真=GettyImages

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