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中日、大洋、そして日本ハムを率いた知将の現役時代。悲劇が生んだ“魔球”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1943~99年】

週刊ベースボールONLINE

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「本気で死ぬことを考えた」



中日監督時代の近藤。1982年にはリーグ優勝を果たした

 21世紀に入って完全に定着した投手分業制。わざわざ名前がついていることからも、かつては“分業”ではなかったことが分かるだろう。メジャーでは「投手の肩は消耗品」という認識は20世紀の中盤くらいからあったが、一方の日本では、投手は先発完投が基本、リリーフするのは先発に失格となった投手の仕事、というイメージは長い間、根強かった。

 そんな時代にあって、いち早く分業制を採り入れたのが、中日で投手コーチを務めていた近藤貞雄だ。巨人のV10を阻んだ1974年も投手コーチとしてチームを支えた。その春には巨人の中尾碩志コーチと激しい“球数論争”を繰り広げたこともある。投手の球数については近年も議論が尽きないが、およそ半世紀も前に、近藤には球数についての問題意識があったということだ。

 8年ぶりVイヤーとなった82年には監督として“野武士野球”を掲げ、「(巨人の)守りの野球は古い。これからは攻撃野球だ」とぶちあげてナインの背中を押す。大洋(現在のDeNA)の監督に就任した85年には、1年目から俊足を誇る高木豊、加藤博一、屋鋪要を一番から三番に並べて“スポーツカー・トリオ”(のちに“スーパーカー・トリオ”の名称で定着)として売り出し、守備でも二塁の高木と遊撃の山下大輔、一塁のレオンと三塁の田代富雄を、それぞれ交換する“裏返しコンバート”を断行。時代が平成となった89年には日本ハムの監督となり、開幕から間もない4月10日に判定を巡って抗議、大正14年に生まれた63歳ながら、平成の記念すべき(?)退場1人目となった。

 監督として優勝できたのは中日の82年だけだったが、当時を知るファンなら、いずれの采配も不思議と鮮明な記憶として残っているのではないだろうか。“ダンディー”のニックネームで親しまれたが、グランドでは稀代のアイデアマンで、異名は“マジシャン”。近藤監督の“マジック”は、たとえ優勝には遠いチームであったも、その異彩でファンを喜ばせ続けた。

 愛知県の出身。戦中の43年に西鉄(戦後の西鉄ライオンズ、現在の西武とは別のチーム)へ入団したが、1年で球団が解散したことで44年に巨人へ移籍した。だが、やはり1年でプロ野球は休止に追い込まれ、応召して豊橋の工兵隊へ。戦後、プロ野球が再開されると、そのまま巨人で復帰して、23勝を挙げた。戦火に散った選手も多い中、恵まれた戦後だったといえる。

 ただ、戦争は終わっていたが、その残り火はくすぶっていた。悲劇は、そのオフ、納会を終えた夜に襲いかかってくる。進駐軍のジープが暴走。これを避けて川に飛び込んだところ、川底にあったガラス片で右手中指の腱を切ってしまう。このときジープにはねられたとする資料もあるが、いずれにしても右腕の“致命傷”となったのは中指のケガだった。翌47年はゼロ勝に終わると、巨人をクビに。監督としては喜怒哀楽のうち、喜と怒のインパクトが大きく、陽性の印象がある近藤だが、このときは絶望から「本気で死ぬことを考えた」という。だが、近藤が選んだ道は死ではなかった。

最初の“マジック”



現役時代の近藤。2度の2ケタ勝利を果たした投手だった

 やはり近藤は強運だったのかもしれない。絶望の淵にあった近藤には頼れる友がいた。巨人でチームメートだった宮下信明だ。ただ、友人の存在も絶望から立ち上がる決定打になるとは限らない。それでも、宮下に説得されて一緒に中日へ移籍。ボロボロになって地元へ戻る形となった近藤だったが、そこから徐々に気持ちを切り替えていった。

 中指が使えないなら、その中指を使わなければいい。この発想の転換こそ、近藤にとって最初の“マジック”だったのかもしれない。主力が大量に離脱した中日にあって、7勝23敗と大きく負け越しながらも48試合に登板して、苦しいチームを支えた。すでに戦前、戦中の“投高打低”という時代ではない。ホームラン・ブームの真っただ中で、防御率2.60という数字からも、内容が悪くなかったことが分かる。

 2リーグ分立の50年には23試合の登板ながら10勝4敗と勝ち越し。近藤が編み出した最大の武器は、3本の指で投げるパームボールだった。ただ、この2度目、そして最後の2ケタ勝利は、近藤にとって最後の勝ち星となる。54年の初優勝、日本一を見届けて29歳の若さで引退して、そのまま中日で指導者の道へ。監督としては「監督はプランナーであるべき。その時代と、何年か先の時代を読める頭と体が必要」と語っている。そして時代は、近藤の野球に近づいていった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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