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近鉄は新代表で変わるのか/週べ回顧1972年編

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 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

広島キャンプは初日から実戦形式



近鉄時代の三原脩監督


 今回は『1972年1月31日号』。定価は90円。

 球団の1972年春季キャンプ地が決まった。
 中日は水原茂前監督のなじみだった明石から浜松へ移転。与那嶺要新監督は「だって明石は寒いよ」と語っていた。
 実際、明石キャンプは前半は雪が当たり前だったが、水原が巨人監督時代から使っていた。後援者との関係もあったのだろう。
 大洋は草薙が改装中で島田へ。ただ、島田は全員が泊まれる宿舎がなく、主力は静岡から毎日1時間かけてバスで通うという。プロとしては寂しい話だ。
 広島は途中からインディアンスのキャンプに合流する予定だが、その前、日南キャンプでは初日から実戦形式でいくと発表。根本陸夫監督のメジャー流の考えは、このころからあったということか。

 近鉄の話もあった。
 新たに近鉄ラグビー部出身の今村宣彦が球団新代表に就任。かつて近鉄のマネジャーをしていた時代もあり、なかなかの熱血漢。その手腕が注目されていた。
 なぜかと言えば、近鉄球団のフロントの体質的な問題がたびたび言われてきたからだ。
 要は事なかれ主義が多いということだった。
 
 ある意味、仕方がない面もあった。球団の大事なことは、すべて親会社が決め、現場フロントの意見がほとんど通らなかった。

 たとえば三原脩監督の退団がそうだった。
 万年Bクラスの近鉄を変えたのは、明らかに68年就任の三原監督。ただ、70年3位となりながらも近鉄は三原監督と再契約の交渉をしなかったという。
 三原監督が東京に帰りたい、という意向を強く持っていたのは確かだが、引き留めがまったくなかったのは、さすがの三原も意外だったようで、「何を考えているか分かりません。長くいる球団ではありませんな」と話していた。

 近鉄グループという大企業の中で、近鉄バファローズの居場所は隅の隅。三原監督の時代でも、なかなか佐伯勇オーナーに直接要望を伝えるどころか、会うこともあまりできなかったという。
 球団フロント内にも「積極的に動かないほうが出世する。もし動いて失敗したらガツンとやられる」という雰囲気が蔓延。それが今村代表就任で変わるのでは、と期待されていた。

 近鉄のもう1つの問題は球場だ。当時の本拠地は日生球場でアクセスは極めてよいのだが、持ち主は日本生命だし、何よりキャパが小さい。68年、近鉄が優勝かとなったときも、日本シリーズは南海の大阪球場を借りる方向で話が進んでいた。
 球場がないわけではない。藤井寺に3万人収容の球場があったが、こちらにはナイター設備がなかった。ただ、日生との関係もあったようで、この時点では藤井寺にナイター設備をつけようという話はなく、本気とは思えぬ屋根付き球場のプランなどがたびたびぶち上げられていた。
 果たして、今村代表で球場問題に動きは生まれるのか。

 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM

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