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試合出場を続けた衣笠祥雄を襲った究極の“どん底”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1970~87年】

週刊ベースボールONLINE

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

ニックネームから名実ともに“鉄人”へ



広島・衣笠祥雄

 1987年シーズン終了までの2215試合連続出場で世界の頂点に立ち、そのまま現役を引退した広島の衣笠祥雄。それから30年ほどが過ぎて、奇しくも広島が四半世紀ぶりにリーグ優勝を果たした2016年に、衣笠は複数のインタビューに応じ、同じようなことを語っている。

「僕の連続試合出場は、まだ続いているんですよ。誰も言ってくれないけど、球団と契約してもらえるだけの体と技術を戻して、もし明日、選手登録されて、ユニフォームを着て試合に出れば、その可能性があるじゃないですか。この連続試合出場がつながるんですよ」

 このとき、衣笠は69歳。自身も、

「僕の中で、ですけどね。笑われるかもしれないけど。ずっと思っています。僕だけは、それを知ってるんです」

 と、笑顔を浮かべる。ただ、衣笠の現役時代と同じ時間を過ごし、そのプレーを目の当たりにしてきたファンにとっては、油断すると冗談として聞き流してしまいそうな衣笠の言葉は、胸に迫るものがあるのではないだろうか。どんなに年齢を重ねようとも、そのユニフォーム姿を見たいと、衣笠の夢に自らの思いを重ねたファンもいたことだろう。

 京都の平安高から65年に入団。その秋からドラフト制度が始まっており、それ以前にプロ入りした最後の選手たちの1人でもあった。当時は捕手。1年目からマスクもかぶったが、衣笠も「プロ野球が何なのか、まだ分かっていなかった」と振り返る時期だ。転機は67年。根本陸夫コーチの就任だった。シーズン途中、一塁手に転向。新たに根本監督となった翌68年にはレギュラーに定着した。

 まだ背番号は28番。当時、人気だったマンガ『鉄人28号』から“鉄人”と呼ばれるようになったが、まだ試合を休むこともあり、“鉄人”はニックネームに過ぎなかった。だが、衣笠は振り返っている。

「そもそもプロ入りから3年間、なかなか出場機会に恵まれなかった。根本監督には『休みたいなら永遠に休ませてあげる』と言われて。痛いなんて簡単に口にできない中で育てられました」

 70年はシーズン最後の5試合に出場。言い換えれば、閉幕から数えて6試合目が“最後の休日”となったことになる。翌71年はシーズン全試合に出場。その後も試合を欠場することなく、74年からはフルイニング出場も始まった。翌75年に広島は初優勝。もちろん、その立役者の1人となった。そこから一瞬たりとも試合から姿を消すことなく、三宅秀史(阪神)の持つプロ野球記録の700試合連続フルイニング出場も視野に入ってきた79年、衣笠はチームのブレーキとなってしまう。

骨折よりも追いつめられた危機


 5月28日の中日戦(岡山)に備えていた宿舎で、衣笠は古葉竹識監督に呼ばれた。このとき、すべてを察したという。衣笠は先発メンバーから外れ、連続フルイニング出場は678試合でストップした。

「試合前に、不名誉なことなのに記者会見がありましたが、仕方ない。それよりもスランプが深刻でした。あのときは、地球が爆発すればいい、と思うくらい追いつめられていました」(衣笠)

 それでも連続試合出場は継続。だが、8月1日の巨人戦(広島市民)で左肩に死球を受けて骨折、出場も危ぶまれるほどの重傷だが、衣笠は笑う。

「別にスランプのときほど追いつめられることはなかったです。体が痛いだけですし、待っていれば治るわけですから」

 翌2日には代打で出場して、三振。

「自分としては打てると思ったから、古葉監督に『出してください』と言った。チームの勝利に貢献できる自信があったから、打席に立ちました」

 とはいえ、骨は折れているのだ。このときの詳しいことは別の機会に譲るが、スランプを克服した衣笠は、体だけでなく、心を強靭に鍛え上げていた。

「練習しているときだけは自分を信じられるんです。ボールを打てば飛ぶじゃないか、まだバットを振れるじゃないか。野球が励ましてくれるんです。それが希望につながる1本の糸。最後に助けてくれるのは、練習しかないんです」

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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