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幽霊のうわさが絶えない、内モンゴルの古代都市「カラ・ホト」

カラパイア

古代幽霊が出ると噂の都市遺跡「カラ・ホト」
古代幽霊が出ると噂の都市遺跡「カラ・ホト」image by:Ed Stannard / CC BY-ND 2.0

 「カラ・ホト」は、11世紀に繁栄を極めた内モンゴル自治区西部に存在した古代都市だ。チベット系民族「タングート」が住んでおり、あの有名なシルクロードの途上にあった。マルコ・ポーロの『東方見聞録』に現れる「エチナ」に比定されている。

 しかし、凄惨な大虐殺のせいで町は廃墟と化し、最近になるまで地元の人はこの廃墟に近づこうとしなかった。古い時代の幽霊が出ると怖れられているからだ。

 この廃墟は、20世紀始めに発見された。発掘の結果、タングート語で書かれたおびただしい数の文献が見つかり、ここでの最大の発見のひとつと言われている。この地域の乾燥した気候や、人里離れた場所ゆえに略奪を免れたおかげで残されたのだろう。

カラ・ホトとマルコ・ポーロ


 カラ・ホトとは、モンゴル語で”黒い町”を意味する。中国語では黒城、タングート語ではエチナ(Eji Nai)として知られている。

 おもしろいことに、あの有名なヴェネチア人商人マルコ・ポーロが、この都市について書いていて、『東方見聞録』の中にエチナという名が出てくる。

カンピオン(Kampion)の町を出て北へ向かい、12日の行程でエチナの町に到着する。ここはタングース県の中にあり、サンディ砂漠が始まる場所だ。

住民は偶像を崇拝し、ラクダなどさまざまな家畜を飼っていて、ランナーハヤブサ、ワキスジハヤブサなども多く生息している。

人々は果実や家畜の肉で自給自足の生活をしていて、貿易には関心がない。エチナを抜けて北に進むなら、この地で40日間分の食料を仕入れておく必要がある。このあとは山や谷ばかりで、ずっと町もなく人もいないからだ

 マルコ・ポーロが言っているように、カラ・ホトはサンディ砂漠(ゴビ砂漠)のはずれにある。シルクロード上にあるとはいえ、住民は交易や商業活動にはかかわらない。その代わり、砂漠を旅する者に食糧などを供給して生計をたてている。

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マルコ・ポーロのキャラバン image by:public domain/wikimedia

 マルコ・ポーロが13世紀にアジアへの旅についてのこの本を書いたとき、カラ・ホトの町ができてからすでに数世紀たっていた。カラ・ホトは、1032年にタングート族によって建設されたと言われている。


カラ・ホトを作ったタングート族とは


 タングート族は、チベット系民族の1つで西夏としても知られる有力な民族だった。中国の文献にも6世紀か7世紀頃にはもう記述されていて、当時は中国側の招きで、今日の四川省青海や甘粛に住んでいたらしい。

 中国側としては、タングート族にチベットとの間の緩衝役を担って欲しかったようだ。唐の第2皇帝太宗は、630年にタングートの長に自分の家系の姓を与えたりしているが、タングートはたびたびチベットと組んで中国を攻撃した。

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タングート族の女性(左)と男性(右)image by:public domain/wikimedia / public domain/wikimedia

 11世紀、宋の時代になっていた中国は、東へ目を向けざるをえなくなった。10世紀の始めに唐が滅んですぐ後をついで遼をつくったキタイ人(契丹人)との戦いのためだ。

 結果的に、中国は西の国境に集中することがほとんどできず、1038年、タングートが自分たちの国、西夏を建設するチャンスをものにした。

 西夏はその後およそ2世紀の間、繁栄したが、1227年にモンゴルに制服された。とはいえ、モンゴルが西夏を征服するのに20年かかったという。それだけ西夏が強大な国だったということだ。


カラ・ホトの陥落


 カラ・ホトがモンゴル軍に取り囲まれたのは、降伏する1年前の1226年だった。いったんはモンゴル帝国の一部になってから町が衰退したと言われているが、実は、カラ・ホトは繁栄し続けていた。

 実際には、モンゴルの支配によっていい面もあった。商人たちがカラ・ホトを通るようになって、シルクロードが復活したことだ。しかし、モンゴルの元王朝が滅んでまもなく、この町の繁栄も終わりを告げた。


Mystery Along the Silk Road: The Discovery of the Black City of Khara Khoto with Julia Verzhibinsky

 1368年、元は明に敗れ、モンゴルは中国から追い払われた。モンゴル人の生き残りの多くは、カラ・ホトに逃れたと言われている。

 明は逃げたモンゴル人をあえて追わなかったが、カラ・ホトの多くの生き残り兵士は、中国に反旗を翻して、明から奪われた領土を取り返そうとしていた。

 この動きを知った中国側は警戒した。この頃には、明王朝は中国全土にその支配を固めていて、モンゴルの脅威を厳しく受けて立つことができた。1372年に中国は、モンゴル人征伐のために、カラ・ホトに兵を送り込んだ。

 この進軍の様子は、明王朝の歴史文献にも出てくる。Buyan Temurに率いられたカラ・ホトのモンゴル兵たちは、最終的には中国の将軍馮勝(Feng Sheng)に降伏したとある。馮勝の軍は、元王朝を倒すために明王朝が差し向けた大軍の一部だったのだ。

モンゴルと中国の戦い
1211年のモンゴルと中国の戦い image by:public domain/wikimedia

 中国軍は15万の兵を3つに分け、それぞれ別ルートでゴビ砂漠の北へ進軍した。西の部隊は馮勝、東は李文忠、中央は徐達がそれぞれ率いた。

 強大な軍だったが、このときは中国軍はモンゴルに負け、1635年に清の前身の晋の時代になるまで、その後数世紀はモンゴルは明王朝にとって脅威になり続けた。


カラ・ホトの幽霊伝説


 カラ・ホト陥落について、もっと詳しい話は地元の伝説の中に見つけることができる。カラ・ホトにいたモンゴル軍のリーダーはカラ・バトール(黒い英雄という意味)という名の将軍だった。町の砦は非常に堅固で、中国軍はなかなかこれを武力で落とすことができなかったという。

 そのため、中国軍はカラ・ホトを包囲して圧力をかけ続け、町の外を流れるエジン川を狙った。ここは町の唯一の水源だったため、カラ・ホトの井戸はまもなく干上がってしまった。モンゴル軍は、干上がって死ぬか、戦って死ぬかを選択しなくてはならなくなった。


The City that Died of Thirst

 伝説では、このジレンマのせいでおかしくなったカラ・バトールが、家族を殺害し、自害したと言われている。また、将軍は町の北西壁の抜け道から、まんまと脱出したという逸話もある。その壁の穴は馬が一頭通れるくらい大きく、現在でもカラ・ホトに行けば見ることができる。

 カラ・ホトにとり残されたモンゴル兵たちは、中国軍が攻撃してくるのをただ待つほかなかった。彼らは無残に殺され、カラ・ホトの廃墟には、敗れたモンゴル兵の幽霊が出るという噂が今日でもささやかれている。そのため、地元の住民の多くは古代の幽霊を怖れて、カラ・ホトの廃墟には近づかないという。


廃墟と化した古代都市の再発見


 タングートから奪ったカラ・ホトの町をちゃんと保存したモンゴル人と違って、中国人はゴビ砂漠のはずれのこの町をきちんと整備しようとはしなかった。

 結果的に、町は打ち捨てられたままになった。この町が見捨てられた理由のひとつは水の不足だったとされている。

 それから数世紀、カラ・ホトはすっかり朽ち果ててしまったが、相変わらず幽霊の噂があったため、完全には忘れ去られていたわけではなかった。実際、20世紀始めに、この噂がここの廃墟の再発見につながった。

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カラ・ホトの廃墟(1914年) / public domain/wikimedia

 19世紀の終わり、ロシア人が中国とモンゴル北部の科学的調査に乗り出した。グリゴリー・ポターニンとウラジミール・オーブルチェフというふたりの探検家が、エジン川下流に古代都市があったという噂を聞きつけた。

 この噂は、サンクトペテルスブルグにある科学アカデミー・アジア博物館の興味も刺激し、1907年にピョートル・コズロフの探検隊が結成された。

 この年、コズロフは早速、カラ・ホトの場所を特定し、1908年5月には、地元のタングート族長であるダシ・ベイレから発掘の許可を得た。その見返りに、コズロフは長にディナーや蓄音機をプレゼントしたという。

 探検隊が発見したものの中でもっとも注目すべきは、写本、書物、巻物などの大量の文献だった。これらは、タングート語で書いてあり、乾燥した砂漠の気候のおかげで保存状態も良かった。最初の探検が終わる頃には、発掘した遺物をおさめた箱が10にもなり、それらをサンクトベテルスブルグへ送った。

 2000以上のタングート語の文献のほかに、仏教遺物もあった。1909年、コズロフはカラ・ホトに戻り、さらに文献を見つけた。これらは今日でもサンクトベテルスブルグに保管されていて、カラ・ホト文書ロシアコレクションとして公開されている。

カラ・ホトの絹絵
カラ・ホトの絹絵(エルミタージュ美術館所蔵)image by:public domain/wikimedia

カラ・ホトの調査


 それから数十年後の1917年、オーレル・スタイン卿の第三次中央アジア遠征隊がカラ・ホトを訪れ、8日間の調査を行った。

 さらに、1925年には、アメリカのラングドン・ワーナーが、1927年と1929年にはスウェーデンのフォルケ・ベルクマンが、カラ・ホトに遠征している。ベルクマンは二度目の遠征のときは、1年半も滞在して測量を行い、現地の地図を作成している。

 中国もこの町に興味を持ち始め、1927年から1931年にかけて、スヴェン・ヘディン率いるスウェーデン遠征隊と中国の調査隊がカラ・ホトの調査を行った。

 1983年から1984年には、内モンゴル考古学研究所によって発掘調査が行われ、さらに3000の文書が見つかった。

 文献ほど注目されなかったが、カラ・ホトの廃墟には、高さ9メートルの塁壁、厚さ4メートルの外壁、高さ12メートルの塔、崩れた泥の家などが残っている。さらに、町の壁の外にはモスクらしき建物があり、イスラム教徒の商人がこの町に立ち寄ったときに使ったものではないかと思われた。

墳墓
オーレル・スタイン卿による写真。東側から見た南東角にある墳墓(あるいはモスク)image by:wikimedia commons

 まわりを砂漠に囲まれたカラ・ホトが、簡単に到達できる場所ではないことを考えれば、この廃墟が観光客の注目を浴びなかった理由もわかる。

 つまり、この遺跡は観光客がもたらす恩恵を受けていないということだが、同時に大勢の観光客によって荒らされることもないということだ。これは、将来もこの廃墟が保存されていくのにはいいことなのかもしれない。


Khara Khoto Tangut ghost town
References:The Haunted Ruins of Khara Khoto, The Black City of Mongolia | Ancient Origins/ written by konohazuku / edited by parumo

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