【戦力外を巡るドラマ01】2度の“リストラ”を乗り越えた山本和範
【戦力外を巡るドラマ01】2度の“リストラ”を乗り越えた山本和範
オフに戦力外通告を受け、いまだ来季の所属先が決まらない男たちがいる。その中には前巨人の村田修一ら“大
オフに戦力外通告を受け、いまだ来季の所属先が決まらない男たちがいる。その中には前巨人の村田修一ら“大物”もいるが、過去にも実績のある選手が同じ憂き目にあった。しかし、どん底から見事にはい上がった例も多々ある。不屈の闘志で、ふたたび輝きを放った男たちを紹介していく。

バッティングセンターで……



ダイエー時代の山本

 戦力外からはい上がった選手の代表格と言えるのが、2度の“リストラ”を乗り越え、新天地で劇的な活躍を見せた山本和範だろう。

 彼が最初に戦力外通告を受けたのは、プロ6年目のオフのことだった。もともとは投手として1977年ドラフト5位で近鉄入りしたが、入団直後に外野手に転向。4年目の1980年にはオープン戦での好成績が買われ、開幕スタメンの座を勝ち取るも、定着には至らなかった。

 近鉄を解雇されたのち、山本がバッティングセンターに住み込みで働きながら練習に励み、球界復帰を目指したのはあまりにも有名な話だ。

 その山本に救いの手を差し伸べたのが、南海の二軍監督から一軍の監督に昇格したばかりの穴吹義雄だった。穴吹はファームの監督時代に、ウエスタン・リーグで79年に打率.338、81年には.340をマークした山本の打撃を高く評価していたのだ。

 穴吹に拾われて南海の一員となった山本は、新天地2年目の84年に規定打席未満ながら打率3割を記録し、念願の一軍定着を果たした。翌85年は正右翼手として全試合に出場すると、続く86年は監督推薦で初のオールスターに出場し、第1戦でMVPを獲得。その後もチームが南海からダイエーに身売りし、本拠地が大阪から福岡に移っても主軸として活躍を続け、ホークスにとって欠くことのできない存在となっていた。

 登録名を「カズ山本」に変えた94年には「バントをしない二番打者」として、打率.317でイチロー(オリックス)に次ぐリーグ2位。オフの契約更改では、戦力外通告から12年の時を経て、ついに年俸2億円に到達した。

現役最終打席で……



引退試合での山本

 ところが翌95年には故障の影響で出場わずか46試合に終わると、待ち受けていたのは自身にとって2度目の戦力外通告。まだ25歳と若かった近鉄時代と違ってすでに38歳になっており、そのままユニフォームを脱いでもおかしくはなかった。

 それでも山本は現役続行を希望した。「燃え尽きるまで野球がしたい」という一念からだった。そして古巣・近鉄の入団テストを受けて合格すると、新天地で迎えたシーズンは開幕3戦目から「三番・指名打者」に定着。オールスターには初のファン投票で出場し、第1戦の舞台となった福岡ドームで劇的な代打3ランを放った。この試合で10年ぶりの球宴MVPに輝き、かつてのホームグラウンドのお立ち台に上がった山本は、感涙にむせんだ。

 自身にとって3度目の戦力外通告を受けたのは、その3年後のことだ。シーズン終盤まで一軍出場のなかった山本に、球団が用意した花道は、故郷の福岡で行われる古巣・ダイエーとの最終戦。「六番・指名打者」で出場した「おらがヒーロー」に、敵味方を問わず球場中のファンが声援を送った。最後の打席は同点で迎えた9回二死の場面だ。

「最終打席じゃない。まだオレは終わっちゃいない」

 そう思いながら打席に入った山本がバットを一振りすると、打球はライトスタンドに一直線に突き刺さる決勝本塁打となった。

 一塁側のベンチでは、かつての恩師で今は敵将の王貞治監督が山本に拍手を送っている。

「吹っ切れた。もうこれでいいじゃないか」

 2度の戦力外通告に負けずに23年も現役生活を続け、最後の舞台をホームランで飾った山本。彼こそ、「戦力外の星」と呼ぶにふさわしい。

写真=BBM
(更新日:2017年12月6日)

Series シリーズ

Ranking/人気の記事(スポーツ)

Pick up ピックアップ

人気キーワード

Category カテゴリー

HOME