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【パンチ佐藤が直撃!】イタリアンレストランを経営する元オリックスほか・水尾嘉孝

週刊ベースボールONLINE

『ベースボールマガジン』で連載しているプロ野球選手の第2の人生応援プロジェクト「パンチ佐藤の漢の背中」。現役を引退してから別の仕事で頑張っている元プロ野球選手の下をパンチさんが訪ね、お話をうかがってまいります! 今回は現役時代、横浜、オリックス、西武で活躍し、現在は東京・自由が丘でイタリアンレストラン「トラットリア・ジョカトーレ」を経営するシェフの水尾嘉孝さんのお店を訪問いたしました。

野球をやめてからのほうが“ドラフト1位”を意識



現在は東京・自由が丘でイタリアンレストラン「トラットリア・ジョカトーレ」を経営するシェフの水尾嘉孝さん(右)

“ドライチ左腕”は、2球団目のオリックスで中継ぎとして花咲いた。「ピッチャー・水尾」のコールに沸き返るスタンド。意気に感じて、マウンドに上がった。

 引退後、東京・自由が丘に開いたイタリア料理店の名は、イタリア語で“選手”を意味する『ジョカトーレ』。現役時代は常にアスリートとして、研ぎ澄まされた気持ちで投げ続けた。

「選手でなくなった今も、“戦う意識”だけは持っていたい」

 そんな思いで一人、厨房に立ち続ける。

パンチ 1991年、大洋(現・DeNA)からドラフト1位指名。当時、『史上最高額の契約金1億円』と話題になったよね。

水尾 はい。ちょうど佐々木(主浩)さんの翌年で、佐々木さんに「なんでお前のほうが高いんだ」って散々文句を言われました(笑)。

パンチ だけど実際は税金でいっぱい持っていかれちゃうから、まったく変わんないんだよね(笑)。“ドラフト1位”という評価については、どう思っていた?

水尾 僕はもともと腰痛も抱えていましたし、社会人に進もうと考えていたんです。スカウトの方や監督に背中を押していただいて、プロの世界に飛び込むことになりました。

パンチ 僕も水尾君と同じで、プロ野球選手になるために頑張ってきたんじゃなかったんだ。貧乏脱出のため、ふつうの生活をするために野球を武器に、川崎市の水道局に入ろうと思ってたの。そうしたら亜細亜大から話が来て、また4年頑張ったら熊谷組から話が来て。そこで僕の夢は完結したはずだったんだけど、オリックスの1位指名を受けてしまったので、これは神様に「行け」と言われたんだなと思って入ったわけ。だけど入ってしまったら1位も何も一緒だから、「そんなに1位、1位ってあおるなよ」というのはあったよね。

水尾“ドラフト1位”は過去に対する評価だとは思っていても、やはりその称号があると、「やって当たり前だろう」という期待を皆さん持ってしまう。それにはきちんと応えなければいけないんですが、応えられないときはしんどかったですね。

パンチ むしろ今、引退したあとのほうが、「年に12人しかいなかったんだもんな」とか思えるかもね。

水尾 野球を知らない人でも「ドラフト1位」の意味を知っていて、「すごいよね」とおっしゃるんです。それにはちょっと驚いています。

パンチ 水尾君は僕がオリックスをやめたのと入れ替わりで、横浜からオリックスに移籍してきたんだよね。チームもリーグも替わって、どうだった?

水尾 当時の横浜は、どちらかというと管理野球に近かったんです。ところが(オリックスの)仰木(彬)監督はオープンで、あまり制約がない。自分が成績を上げるために、自分で考えて好きな練習をしなさいという。「伸び伸びできる感覚を持った人間が多い」とは聞いていましたが、それがよく分かりました。

パンチ 仰木監督はそういうとこが良かったよね。もちろん厳しいんだ。悪い言い方をすると冷たい部分もあるけど、はっきりしている。

水尾 トレードで行くとき、大学時代から知り合いだった三輪(隆=捕手)や何人かに聞いたのが、「仰木さんは1回ダメでも、もう1回はチャンスをくれる。2回ダメだったらあきらめろ」と。「チャンスはくれるんだな」と思ったとき、非常に気が楽になりましたね。当時ピッチングコーチだった山田(久志)さんも、そういうスタンスだったんです。

パンチ 最高のスタッフ、最高のオリックス時代だね。パ・リーグのバッターはブンブン振ってくるけど、そこは怖くなかった?

水尾 力任せに行ったらやられますが、その分丁寧に投げればいいと思っていましたので。

パンチ オリックス時代に、先発から中継ぎに転向したんだよね。人が投げたあとのマウンドって、気にならなかった? これはそのあと行ったアメリカが顕著だと思うんだけど、マウンドは高いし硬いし、おまけに外国人が投げたあとの歩幅の違いとか、大変じゃない。

水尾 オリックスに行って28歳のとき、腰の手術をしたんです。もうボロボロで、長いイニングは投げられない。でもそのとき、仰木さんに「短いイニングで構わない。1人でも構わない」と言っていただいて、とにかくいつでもスタンバイしておかなければならない、肩ができていなくても、「行けるか?」と言われたら、すぐ「行きます」という状態にしておかなければいけないと思いました。以来、調整法もマウンドも、不都合はあまり見ないように、「これでやるしかない」と考えるようにしたんです。高校時代なんか、一生懸命(マウンドを)掘って、掘って、自分の型になるまでやっていたんですが、中継ぎでそれをやっていると自分が疲れるだけ。踏ん張らないと投げられないようでは波が出てしまうので、あまり気にしないようなフォームにしました。

実力だけで契約を勝ち取れる米球界へ



オリックスではパンチさんと入れ替わり。貴重な中継ぎ左腕として活躍した

パンチ そこから西武を経てアメリカまで行ったのには、どんな背景があったんですか。

水尾 ずっと野球ができるのは当たり前だと思ってきたのが、腰の手術をするまでまともに野球ができなくなりました。やっと一軍で投げられるようになって、「野球ができるのは当たり前のことじゃないんだ。喜んでやるべきなんだ」と分かり、この先はボロボロになるまでやろうと思いました。だけど西武のときは、腰痛の影響もあって治療ばかりで自由契約になりまして。その後2球団のテストを受け、内容は悪くなかったんです。ところが、どちらも最終的には「もう34歳だから」と不合格。そんなのテストする前から分かっていますよね。

パンチ 古いね。あとは、どこかから「腰が」とか聞きつけて、ウワサだけでマイナスの評価をしたのかも。

水尾 だったら、力の勝負をしてみたいと思ったんです。自分の人間関係でもない、実力が欲しいと言われて契約する世界といったら、海外かな、と。もうダメもとでアメリカに行ってやる、と思いました。

パンチ いいねえ! そしてアメリカの3A、2Aで2年。アメリカでやり抜けた要因はなんだったと思う?

水尾 どんな状況でもできないことを探すのは簡単で、あとから理由付けなんかいくらでもできます。そうじゃなく、「何ができるか」を探し続ける人のみ、できる確率が高まるんだと思います。マイナーではありましたけど、それまでの自分の世界や感覚がどれだけ狭かったか分かり、とても勉強になりました。

パンチ 「もう終わりだな」と思ったのは、どんな瞬間だったんですか。

水尾 腰をかばいながら投げているうちに首も悪くなり、手にしびれも出始めて、ボロボロになりました。それでもまだ翌年やるつもりでキャンプに臨み、ランニングを始めたんです。いつもジョギングから始めて体がしんどくなったら止まって、少し散歩をして、体が温まったところでまた走り始める、を繰り返していました。ところがその日に限っては、ランニングがしんどくなって止まり始める。少し歩いて走り始めても、またすぐ止まってしまう。「動けよ」と思っても、もう体が動かない。体が付いてこないんです。その瞬間、「体が拒絶しているんだから、もう終わりかな」と思いました。もう十分かな、と。

パンチ そこでどんな思いが?

水尾 野球をあきらめる悔しさもありながら、やっと終わったというか、アメリカまで来て野球ができて、大満足という気持ちもありました。

日中はひたすら皿洗い、夜は学校の修業時代



水尾シェフが腕を振るう「トラットリア・ジョカトーレ」はランチ11時半、ディナー17時半からの営業で火曜定休です

「動かなくなるまでやれてよかった」とは思ったものの、やはりある日を境に、それまで一生懸命やってきたすべてをリセットしなければいけないのは寂しかった。次の仕事は引退がない世界――生涯自分の体が尽きるまで向き合っていられる仕事を追い続けていきたい。そう思って選んだ第二の人生は、料理人。しかし、包丁さえ握ったことのなかった水尾さんがその道を歩むには、再び“球拾い”や“先輩の用具磨き”からのスタートが必要だった。

パンチ 料理にはもともと興味があったんですか。

水尾 いえ、料理を作ったこともなかったです。38歳でのスタートですから、飲食関係にいる友人たちに「どうすれば一番早く成長できるか」と相談しました。すると、「朝、仕込みの厳しいお店で下働きをさせてもらいなさい。それで夜間の調理学校へ通い、実地と知識の両方を身につけていくのが一番早い」と。

パンチ そういう相談のできる友達がいてよかったね。野球だけの世界に生きていると、食事に連れて行ってくれる社長、みたいな知り合いは多くても、そういう相談のできる仲間はなかなかできないじゃない。それから、どういう修業をしたの?

水尾 その条件がかなえられるところを探していくと、大阪に夜間の調理学校があったんです。ちょうど近くに明治軒という、僕が現役時代から好きだった老舗の洋食屋さんがありまして。非常に忙しいというので、そこで1年間、皿洗いをさせてもらおうと、頼みに行きました。

パンチ そうじゃなきゃいけないとは分かっていても、「皿洗い?」という気持ちはなかった?

水尾 最初、初心のうちに誰もがする苦労を知っておかないと、あとでつまずくと思いましたので。

パンチ さすがだね。野球だって最初は先輩のグラブや靴磨きから。そういう人は成功しているよ。

水尾 やり投げでどんなに肩が強くても、じゃあプロ野球でいいピッチャーになれるかといったら、なれません。土台のない人間がちょっと何かしたって、付け焼き刃ではすぐ壊れていって終わりです。やはり思いのある人間のほうが続くし、成長するのではないかと思います。

パンチ その皿洗い時代はどのくらい、どんな生活を続けたの?

水尾 1年です。朝は許してもらえれば7時や7時半から玉ねぎやジャガイモの仕込みを手伝って、営業時間になったら皿洗いをするんです。ただ、あまり朝早くから1人だけシャカリキにやっていると、周りから「やめてくれ」と言われてしまうので……。

パンチ なるほどね。こっちは必死になって一日でも早く独立したいと思っているのに、「なんだなんだ、プロ野球やめてきて、いいところ見せようとしてるのか」ってね。そこはどうやってバランスを取ったんですか。

水尾 相手は下働きの子たちで、僕より全然年下だったので。「それは違うよ」と会話をしていきました。そうしたら、「僕らも」と言ってやってくれるようになったんです。

パンチ それは、明治軒のご主人もうれしかったんじゃない。

水尾 料理長が喜んでくれましたね。

パンチ みんなのいい刺激になるよね。あとはどんな勉強をしていったの?

水尾 包丁もろくに使えなかったので、人の倍はかかるんですよ。そこはとにかく数をやるしかないので、家に帰ってからも包丁をずっと握って、動かす練習をしていました。

パンチ 学校の勉強のほうは?

水尾 学校では栄養学の勉強と調理実習ですね。卒業すると、調理師の資格が付いてくるんです。何より周囲に学校がいいと言われたのは、和食、中華、フレンチと一通りやるから。広く浅くではありますが、やればやるだけ勉強になるし、いろいろな先生方と知り合いになれる。要は困ったときに教えてもらえる友達がたくさんできる感覚になるから、と。

パンチ 野球だって小さいころから毎日雨が降ってもランニングするし、寒い日だってキャッチボールをする。コツコツやって、プロ野球選手になったんだ。同じ気持ちがあれば、何でもできるよね。そこからは?

水尾 調理学校で1年半。その後東京に移り、イタリアンの店で3年半、修業をさせていただきました。

パンチ 話が前後するけど、そもそもどうしてイタリアンを選んだの?

水尾 海外へ行ったとき、日本の食材はおいしいなとしみじみ感じて、初めは「和食が一番かな」と思ったんです。ただ、和食は各お店の流儀がありまして、下積みの時間も非常に大切にするんですね。僕は38歳から始めましたから……。

パンチ 10年やるのはキツいよね。

水尾 それなら同じように食材を重視した調理法のイタリアンにしてみよう、と。

開店7年を超え、ようやく回り始めた


パンチ 大阪で勉強したのに、あえて東京に店を出そうと思ったのはなぜ? 東京はライバルが多いでしょう。

水尾 関西で働かせていただいているとき、やはり関西は難しいなと思ったんです。もともとが地元じゃない分、新参者がポンとやってきて、その土地に根付けるかといったら、東京以上に難しい気がしました。僕は父が転勤族で、これと言ったふるさともありませんし、プロでもあちこち行っていたので、どこに行っても同じなんだったら一番難しいかもしれないけど、東京でやってみよう、と。

パンチ ライバル店の多い中、どうやって違いを出そうと思いました?

水尾 僕は現役時代から自分の食事も、体にいい高たんぱく低カロリーで油を控えめに、を心がけてきました。そこで、「おいしいものは食べたいけれども塩分がきついとか高カロリーだから」と年配の方が気にしなくていいような、体にいい料理にしたいと思いました。

パンチ 何年目くらいから「お? いい風が吹いてきたかな」って思い始めましたか。

水尾 2010年の8月に開店して、翌年の3月に震災がありまして……。あのころは、ひどかったです。

パンチ プレーボールがかかって、まだ1回1アウト取ったあたりだよね。よく踏ん張れたね。

水尾 はい、最初からそんな感じだったので、順調に回るなんて、とても思えませんでした。初めは何とかしなきゃ、何とかしなきゃという感じ。ただ、周りから「5年くらいやっていると、多少覚えてもらえるよ。7年くらいになると常連さんが付いてくれて、少し回る感じが出てくるよ」と言われていて、それは「確かに」と思いましたね。5年を過ぎたころから、「この方たちはまた来てくださるかな」と感じられるお客様が増えて、その分気が楽になりました。

パンチ 元プロ野球選手がお店を出しても、続かないところがあるじゃない。それはなぜだと思いますか。

水尾 例えば自分が主になって働くのではなく、オーナー業でたまにホールに出て、というくらいの気持ちでやられたとき、下が付いてくるのかなというと付いてこないと思うんです。料理を作る子たちは、今は使われているとはいっても、きちんと技術を学んできた子。野球選手だって、自分が一生懸命野球をやっているのに何も分からない人が来て、「お前の野球は……」って言われても、絶対に聞かないですよね。上に立つんだったら、自分もそれなりのものを積んでおかないと、苦しいときに付いてきてくれないと思います。

パンチ 下の子たちだって、ちゃんと見ているよね。いやあ、今日もこの対談、いい勉強になったなあ! 今後はどんなことを考えていますか。

水尾 まずはこの店をしっかり、不動のものにして、10年やれたら2店舗目ですとか、次の展開を考えていきたいと思っています。

パンチ その10年が一つの試合だとすると、今7回くらい?

水尾 何か不都合なことが起こったら、「いやいや、まだ3回だから大丈夫」と思うようにしています。

パンチ いい考え方だよね。これから引退する選手たちには、どんなアドバイスを送りたいですか。

水尾 野球はどんな形であれ、いつか終わるもの。だけど野球界って年功序列で、長くいればいるほど、居心地がいいんです。ただずるずる行くと、どんどん世間との考え方が離れてしまうと思うので、引退が決まったら一度は野球界を離れるべきだと僕は思います。戻るんだったら、いつでも戻れますから。

パンチ ありがとう。今度、必ず食べに来ますよ!

パンチの取材後記


 これが“漢の迫力”と言うのでしょうか。水尾君の「一流のイタリア料理店を作ってやる」という迫力に終始押されっぱなしでした。この対談スタート以来、ある意味初めて味わう、しびれる感覚でしたね。

 しかし水尾君、少し僕に似ているところがあったかな。いい意味で頑固。それが彼の(僕の?)いいところでもあるんですが、もう少し肩の力を抜いてもいいかもしれません。

 社交辞令じゃなく、僕は必ず食べに行きますよ。野菜たっぷりモッツアレラ・バジルのトマトソースパスタに、岩中豚スペアリブのとろとろ煮込み……いやあ、楽しみだなあ!!

●水尾義孝(みずお・よしたか)
1968年5月2日生まれ。奈良県出身。明徳義塾高から福井工大を経て、ドラフト1位で1991年大洋(のち横浜)に入団。95年にオリックスに移籍し、97年は68試合、98年は55試合に登板するなど左の中継ぎとして活躍。01年西武に移籍し、03年限りで退団。その後は渡米し、アナハイム・エンゼルスと契約しマイナー・リーグでプレーした。NPB通算成績は269試合登板、7勝9敗2セーブ、防御率3.42。現在は東京・自由が丘でイタリアンレストラン「トラットリア・ジョカトーレ」を経営。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。山形県南陽市のラーメン大使。

構成=前田恵 写真=山口高明、BBM

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