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早く咲き、長く咲き続ける。佐藤義則という“花見酒”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1977~98年】

週刊ベースボールONLINE

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

1年目の新人王から6年目の練習生に



阪急・佐藤義則

 早咲きの花は、ほかの花より早く咲いた分だけ、散るのも早くなる。逆に、遅咲きの花は、そもそも咲いたのが遅いのだから、散るのがほかの花よりも遅くなるのは自然のことだ。思えば、もちろん地域によって差はあるが、2020年の桜は長く咲いていた印象がある。首都圏では3月の中旬に咲き始め、4月の中旬でも咲き残る桜があった。花見に集い、酒を酌み交わすような世相ではなかったが、我慢と辛抱を重ねていた我々に、粘り強く咲き続けて、遠くから小さな声援を送ってくれていたのかもしれない。

 昭和から平成にかけて、そして阪急からオリックスにかけて、21年もの長きにわたって投げ抜いた佐藤義則も、そんな投手だったように思う。早々に咲き始め、早くも散りそうになりながらも咲き残り、やがて満開のときを迎え、ふつうなら散るタイミングでも粘り強く咲き続けて、遅咲きならでは美しさを見せてくれた。

 北海道の離島、奥尻島の出身。函館有斗高では甲子園の出場はなかったが、日大4年の秋にシーズン78奪三振をマークして、ドラフト1位で1977年に阪急へ。黄金時代の阪急にあって即戦力となり、1年目から7勝を挙げて優勝に貢献、新人王に。指が短くフォークは投げられなかったが、親指と人差し指で球を挟み、その間から抜く独特の“ヨシボール”が武器。ぎこちない投球フォームは南海で兼任監督を務めていた野村克也に“ぎっこんばったん投法”と呼ばれたが、巨人との日本シリーズでも王貞治、張本勲、柳田真宏を3者連続で三振に仕留めて脚光を浴びた。

 そのまま先発に定着して、翌78年には初の2ケタ13勝、その翌79年にも10勝を挙げたが、80年代に入ると急失速。80年は4勝に終わり、課題だった制球力を改善すべく、梶本隆夫コーチとフォーム改造に取り組んだ。だが、手ごたえを得た矢先の81年1月、ぎっくり腰に。自主トレ中の悪夢だった。シーズンは棒に振ったが、必死のリハビリにより回復の兆しがみられた82年1月、支配下登録選手を外される。それでも開幕を前に再び支配下となり、リリーバーとして復活。その82年は4勝13セーブ、翌83年には1勝16セーブと、クローザーとして第一線に返り咲いた。

 阪急にとって最後のリーグ優勝となった84年には先発にも復帰して、17勝6敗と貯金を稼ぎ、リーグ最多の136奪三振。翌85年には2年連続リーグ最多の188奪三振に加え、自己最多の21勝でキャリア唯一の最多勝に輝いた。下位チームから荒稼ぎしたわけではない。優勝した西武に対して11試合の登板で最多の8勝を挙げている。これが結果的には昭和における最後のシーズン20勝。佐藤義則、まさに満開だった。

40歳11カ月の離れ業



オリックス時代の95年、40歳11カ月でノーヒットノーランを達成してマウンド上でガッツポーズ

 その翌86年にも14勝を挙げ、続く87年にはプロ11年目にして初めて開幕投手を任された。だが、13勝を挙げた88年を最後に、阪急はオリックスに。そして時代も昭和から平成となり、じわじわと佐藤も勢いを失っていく。それでも、そう簡単には散らなかった。92年から2年連続9勝。40歳となる93年からは2年連続で規定投球回にも到達した。

 95年は規定投球回こそ届かなかったが、8月26日の近鉄戦(藤井寺)で先発のマウンドに立つと、そのまま離れ業を演じる。1安打でも許せば降板の予定だったが、最終的に132球を投げ抜き、31人目の打者から“ヨシボール”で三振を奪ってノーヒットノーランを達成した。40歳11カ月での快挙は当時の最年長。野手たちは佐藤に気づかれないように集まって、「体の横で打球をはじいたらヒットになる。なにがなんでも正面で捕れ!」と声を掛け合ったという。“がんばろうKOBE”を合言葉に優勝へと邁進するチームを、さらに団結させたノーヒットノーランでもあった。

 酒を愛した男でもあった。98年に目標だった通算500試合登板に到達し、44歳で現役を引退。「きょうは楽しい酒になるな」と笑顔で語った。ただ、それはファンも同様だったのではないか。佐藤のプロ1年目、77年に生まれた人は、すでに成人。佐藤の投球を見ながらの親子酒を楽しんだファンもいたかもしれない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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