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外国人選手初の三冠王、NPB最強右打者ブーマーが過小評価された理由とは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

週刊ベースボールONLINE

「ブーム・オフ・ザ・バット」



1986年のオールスターで落合(左)、バース(右)と談笑するブーマー

 1983年(昭和58年)、週刊少年ジャンプ41号にて新連載『北斗の拳』が掲載された。

 翌84年39号で『Dr.スランプ』が終了し、51号よりのちの世界的大ヒット漫画『DRAGON BALL』が始まるわけだ。『キン肉マン』や『キャプテン翼』も健在で、ジャンプは84年の年末最終号で発行部数403万部に達した。翌85年には『シティハンター』『ついでにとんちんかん』『魁!!男塾』といった新連載が立て続けに話題を呼び、ジャンプ黄金期へと突き進んでいくことになる。

 そんな時代に来日した身長2メートル、体重100キロという『北斗の拳』のハート様のような巨漢外国人選手が、ブーマー・ウェルズである。大学時代はアメリカンフットボールの選手として鳴らし、プロのニューヨーク・ジェッツで2カ月ほどプレー経験もあるパワー自慢(ヒザの半月板を痛め野球の道へ)。83年に28歳で阪急ブレーブスに入団したが、実は本人が望んでの来日ではなく、所属先のミネソタ・ツインズの黒人嫌いで知られるオーナーが、日本からのトレードマネーを稼ぐために自身を売却したことに、ブーマー本人は「この世の終わり」と絶望したという。前年3Aトレドでは打率.336、107打点で二冠獲得と実力は申し分なし。アメリカの約5倍にあたる3800万円の高年俸に驚いたデブラ夫人からの叱咤激励もあり、ブーマーは来日を決意する。

 さて、本名はグレゴリー・デウェイン・ウェルズだが、マイナー時代の特大ホームランに驚いたファンが「爆発男ブーマー」と呼ぶようになり、少年ファンもその愛称を連呼。やがて実況放送席も強烈な打球を「ブーム・オフ・ザ・バット」と表現し、場内アナウンスも「ブーマー」が定着していく。

 その巨体は日本で大きな話題を呼び、『週刊ベースボール』83年2月28日号では「ひと振り160メートル、怪人・ブーマーが打撃練習をはじめると球拾いのおばさんがいっせいに、物かげに隠れる」なんて特集記事が組まれている。場外サク越えを連発して死人が出たら大変だと球団は背番号44の打球に1億円の「賠償責任保険」をかけ、球団広報は「ブーマーの打球は、ものすごい勢いで150メートルは飛びますので充分、気をつけてください」と看板作り。「わざと打球に当たって1億円保険を狙う奴があるかも知れん」なんてなんだかよく分からない心配をする関係者も。普段は冷静な上田利治監督も「四番・一塁は決定です。ブーマーが打つと他の選手がシラケてしまうほど。彼のバッティングを見て、みなさんは目の保養になったでしょう」なんつって大ハシャギである。

 当時、観客動員に悩む阪急は本拠地・西宮球場の左中間最上段席を“ブーマー・ゾーン”と名づけ、そこに飛んだホームランをキャッチした人には世界旅行をプレゼントというド派手なキャンペーンを企画。まさにブームを呼ぶ男。1年目こそオープン戦から張り切りすぎて、スライディングをした際に右手親指のつけ根を痛めるアクシデントにも見舞われ、打率.304、17本塁打だったが、投手のクセや配球パターンを3冊のメモに記録する研究熱心さを見せ、2年目の84年にその規格外の打棒は爆発する。

助っ人ドリームを実現



打率を残し、長打も打てるバッティングは自由自在だった

 日本の練習法や投手の変化球攻めにも慣れ、2ストライクまではクローズドスタンスで長打を狙い、追い込まれるとスクエアにしてミート中心に切り替える器用さも発揮。打率.355、37本塁打、130打点、OPS1.062と打ちまくり、なんと外国人初の三冠王に輝く。不動の四番を張り阪急最後の優勝の原動力となり、MVPにも選出された。ちなみに清原和博のPL時代のニックネームは“キヨマー”だったが、これは豪打のブーマーをもじった造語である。週べ84年8月13日号「ブーマー・ザ・グレート 舶来製弾丸ライナー製造機に」特集では、こんな心境を語っている。

「メジャーの選手は、みんな豪邸に住んで、農園のひとつも持っているもんなんだ。でも、オレの向こう(アメリカ時代)の給料を知ってるかい。2万ドル(約500万円)さ。オレにとっちゃ、日本は、天国のようなもんなんだよ。オレはあと5年は日本で野球をやりたいんだ。そして貯めた金で、向こうに家を建てる」

 ロッテ時代の落合博満との打撃タイトル争いは「日本プロ野球50年にして初めて実現した三冠王経験者同士の直接対決!」とニュースになり、85年は122打点、86年は打率.350に42本塁打、2年連続の40発を放った87年も119打点でタイトル獲得とブーマーは80年代を代表するスラッガーとして君臨。お茶の間では、ロッテ戦で右脇腹に死球を食らい怒ってマウンドに突進したら、突如画面が薬局への駆け込みダッシュに切り替わり、「パ、パ、パスタイム、クダサイッ!」なんて日本語で叫ぶユートク薬品のテレビCMが人気に。無事、湿布薬のパスタイムを受け取り、阪急ブレーブスの主砲がユニフォーム姿で口にする「ハンキューベリーマッチ」は今でも語り継がれる昭和の球界名台詞だ。

 そんなブーマーを悩ませたのは、やはりセ・パの人気格差だった。阪神のランディ・バースとはCM出演料で10倍近い差があり、スポーツメーカーに巨人のウォーレン・クロマティと同等のアドバイザリー料を求めるも「クロマティとあなたでは注目度において格段の差がある。あなたが巨人に入団するなら喜んで払います」と断られてしまう。それでも、ブーマーは阪急で懸命にプレーするわけだ。88年には古傷の左ヒザ痛が再発して治療のため帰国するも、手術はせず3週間後に日本に戻り試合に出た。

「オレをここまで育ててくれたのは阪急だし、阪急でやったおかげで大金(年俸1億2600万円)も手にすることができるようになったんだ。少々ヒザが痛いといっても、どうして休むって言えるかい」

 下半身への負担を減らすため、パンとフライドポテトを控え減量に成功すると、阪急がオリックスに身売りしてリスタートを切った平成元年の89年シーズンは開幕から5試合連発と大暴れ。南海から移籍の門田博光とともに“ブルーサンダー打線”の主軸として、打率.322、40本塁打、124打点で首位打者と打点王を獲得。ついでに34併殺打はいまだにプロ野球記録というのはご愛嬌。オフには巨人への移籍話が度々報じられ、週べ89年12月18日号「ブーマー綱引きの真相と行方」によると、巨人側が鹿取義隆を交換要員に上げてのトレード交渉を行うも、プラス水野雄仁を要求され、折り合いがつかず白紙に。だが35歳にして年俸は2億1000万円まで上がり、米国アトランタに家を持つ助っ人ドリームを実現させた。

バースへのジェラシー



1992年、日本球界ラストイヤーはダイエーでプレーした

 来日8年目の90年は自打球による左ケイ骨亀裂骨折のため長期欠場。自身最少の46試合の出場に終わり、オフには人間ドックで腹部に腫瘍が見つかり摘出手術。2年契約最終年の91年は土井正三新監督と折り合いが悪く、打率.300、20本塁打、67打点の成績もこの年限りでオリックスを退団する。10年目のシーズンは38歳で新天地のダイエーホークスへ移籍、97打点で自身4度目の打点王を獲得しながら高年齢がネックとなり解雇され、オフにオリックスの秋季練習を訪ねるも復帰はならず。ブーマーはそのまま静かに現役引退した。

 週べ92年5月25日号のマーティ・キーナートが聞き手のインタビューで、「バースがキミに集まるべき栄光を横取りしたように思える。気にならなかった?」なんて問われ、「何とか気にしないようにしたが、時に気になったのは確かだ。ボクも自分に必要な才能が備わっていることを知っている。ただ、バースのようにいいタイミングでなかったから、注目を浴びなかっただけだと思う」と素直に自身のジェラシーを認めている。

 FA選手がパ・リーグ球団を選ぶ現代では考えられないセとパ、阪急と阪神の注目度の差、いわば早すぎた三冠王男。その圧倒的実績から野球殿堂入りも確実視されたが、12年の投票では必要数の263に13票足らず落選し、物議を醸した。ちなみにブーマーの80年代トータル本塁打数224本は、バースの202本を抑え外国人選手トップだ。さらに三振の少なさも特徴で、10年間の内シーズン40個以上喫したのは1回だけ。強さと巧さを併せ持つ最強スラッガーだった。

 なおブーマーの通算打率.317(4000打数以上)は長嶋茂雄や落合博満を抑え、NPB右打者歴代1位である。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM

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