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「故 竹中雅彦さんのお別れ会」。故人は高校野球の発展に寄与した大功労者だった

週刊ベースボールONLINE


「故 竹中雅彦さんのお別れ会」が12月1日、大阪市内で行われ、故人を偲んだ(写真=BBM)

 2011年4月の入局以来、約9年間にわたり勤務した日本高野連(大阪市内)が「お別れ会」の会場となった。野球一途に歩んできた故・竹中雅彦さん(日本高野連・前事務局長、享年64)にとっては、最高の「旅立ち」との場なったはずだ。

 まさしく、生涯現役だった。

 最後の職務は9月20日。「投手の障害予防に関する有識者会議」の第3回会合での司会進行だった。日本高野連・八田英二会長はお別れの会であいさつした。

「咳が激しく、話が途切れたことを、心配していました。2年前にも高熱で入院しましたが、回復が早く、カナダでのU-18のW杯ではご一緒させていただきました。今回も回復して、茨城国体を楽しみにしていたんですが……」

 竹中さんは同会議後に体調を崩し、和歌山市内の病院に入院。すぐに、親友に連絡を入れていた。和歌山・桐蔭高の同級生で、竹中さんの後任として和歌山県高野連理事長を歴任した中村尚登氏だった。友人代表としてお別れの言葉を述べ時折、涙を浮かべながら故人を偲んだ。

「9月25日でした。頼みがあるから来てくれないか、と。大阪で会議があったため、夜に駆け付けると、鼻に2本の管が入っていた。仕事のことが気になっていたようでしたが、私は『少しは気にせず休みなよ。(連盟事務局内には)信頼できる人がたくさんいるんだから』と」

 日本高野連の理事である中村氏はその後、茨城国体、東北地区大会の視察が続き、和歌山に戻れないでいた。竹中さんの病状が心配でならなかった……。

「10月16日。盛岡の地に、あってはならない連絡が入りました。約3週間の入院生活でした……」

 2011年4月、日本高野連に入局する際、中村さんに真っ先に報告していた。

「高校野球が大好きで、常に気にしていた。お互い、体に気を付けて頑張ろう、と。退職したら、ゴルフを存分にやるんだ、と。付き合ってくれ、と。クラブを握ることなく逝ってしまいました」


日本高野連・八田英二会長は竹中雅彦さんのお別れ会で、何度も感謝を口にしていた(写真=早波章弘)

 竹中氏は日本高野連事務局長として、リーダーシップを発揮。大会運営においてはタイブレーク、休養日の導入のほか、熱中症対策に着手。11月30日の理事会において全会一致で決定した「球数制限」についても、現場の最前線で議論を重ねてきた。高校野球の発展に寄与した大功労者である。中村さんは続ける。

「プレーヤーズファースト。選手がいなければ、何も始まらない、が口グセでした」。高校球児のために汗を流し、休むことも惜しまなかった。だが次第に、体を蝕んでいたかもしれない。友人だからこそ、中村さんは最後にこう言った。

「自分の体を、少しは考えてほしかった。病院に行って早く、検査を受けてほしかった。こんなに早く死ぬなんて……バカヤロウ!!」

 八田会長は「女房役として、陰に陽に支えてくれた」と感謝の言葉を繰り返した。

 これほどまでに、慕われた方も珍しい。志半ばで終えた野球人生。高校野球界は、故人の遺志を継いでいくのである。

文=岡本朋祐

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