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平松政次「傷だらけの“珠玉のエース”」/プロ野球20世紀の男たち

週刊ベースボールONLINE

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

諸刃の“カミソリ”



大洋・平松政次

 故障などで登板を回避することも少なくなく、“ガラスのエース”とも呼ばれた大洋の平松政次。ただ、その“ガラス”は、まるで防弾ガラスのように、無数の傷が入っても、そう簡単には割れなかった。シーズン投球回が200イニングを突破すること7度。現在から振り返れば、“鉄腕”といえるほど投げまくっている。

「投げてます、投げてます(笑)。12年連続2ケタ勝利ですからね。特に若い頃はフル回転でしょ。先発だけなら、もっと長くできたと思いますよ。あの頃は先発完投でも、1日だけ休んでベンチに入り、勝てるゲームなら5イニングでも6イニングでも救援登板。ただ、僕の性格に合ってもいた。常に戦っているという気がありました。中6日が当たり前とかになると、闘争心がどこかへいってしまうんじゃないかな」

 1967年シーズン途中に岡山東商高の先輩でもある秋山登、土井淳のバッテリーがいた大洋へ。少年期は巨人、特に長嶋茂雄のファンで、その巨人がV9という空前絶後の黄金時代を謳歌していた時期だった。1年目から白星を挙げているが、芽が出たのは初めて2ケタ勝利に到達した3年目の69年。それまでの球種はストレートとカーブの2種類だけだったが、春のキャンプで先輩に挑発されてシュートを投げると、

「初めて投げたんですが、ものすごく曲がった」

 という。この“カミソリシュート”は居並ぶ強打者、特に右打者の内角へと食い込んで、バットを折りまくった。長嶋も例外ではない。

「ストレートも150キロは出ていたと思うので、そのままの速さで食い込んでくるから、右打者は手に負えなかったと思います。シュートといえば沈むイメージがあるかもしれませんが、僕のは“ライジングボール”と言われ、曲がりながら浮き上がった。ベースの真ん中に投げると、20センチくらい曲がって、ちょうどコーナーのグリップ付近に決まる。だからバットも折れやすい。僕が打者だったら逃げます(笑)」

 ロッテの黒木知宏ら、当時の野球少年たちを興奮させた豪快なフォーム。速球派ならではのヒップファーストから、グラブを着けた左腕も大きく使い、独特の間を挟んでから、一気に投げ込む。最初はスリークオーターだったが、シュートを投げるようになってからは、広島の安仁屋宗八を参考に、サイド気味に腕を下げた。その後は再びスリークオーターに戻しているが、これで球速に加えて、制球も向上。

「縫い目に指をかけず、肩をストレートより少し早く開いて、手を遅らせる。それだけなんです。ひねらないシュートですね」
 ただ、抜群のキレ味を持つ“名刀”は、諸刃の剣でもあった。ヒジへの負担は少なかったが、

「肩にはきました。お勧めできないフォームですね。何度も肩を痛めているうちに腕の振りが鈍くなって、75年あたりからスピードが落ち、シュートのキレもなくなった。それで、いかに曲げるかを考えて、ひねるようにしたんです」

ボロボロのラストイヤーに見えたエースの魂


 80年代に入ると肩痛も激化。球速も落ち、シュートも思うように曲がらなくなったが、チェンジアップを織り交ぜて緩急をつけることで打者を幻惑した。それでも、あまりの肩の痛みに82年には引退を決意。だが、関根潤三監督に慰留されたこともあって現役を続行、翌83年には通算200勝にも到達した。

「たぶん名球会がなかったら、やめていたと思います。あんな苦しみには耐えられなかった」

 もちろん嘘ではないだろう。ただ、暗黒期の大洋にあって、翌84年も現役を続けている。

 目標も達成し、満身創痍にもかかわらず、それでも投げ続けた。黒星が積み重なっていく中、傷だらけの“ガラス”から透けて見えた大洋のエースだからこその魂に、震えたファンもいたのではないか。そんなエースが秘めていたものは、壊れやすいガラスどころか、珠玉の魂だったように思える。

 どん底の大洋をエースとして背負い、最強のV9巨人に立ち向かって“巨人キラー”と呼ばれた。大洋で初めて最多勝のタイトルも戴冠。甲子園の優勝投手で初めて投手として名球会に入ったが、プロ野球で優勝経験がない名球会の投手も初めてだった。

写真=BBM

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