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日産野球部復活の日を信じて……。「休部」状態の名門チームを守るOB

週刊ベースボールONLINE

会社に残る最大の理由は「使命感」



1995年、日産自動車に入社した伊藤祐樹は野球部が休部する2009年まで15年、同社の誇りを胸にプレーを続けた。47歳となった現在は、本社で社業に専念している

 2009年2月9日。今も伊藤祐樹(47歳)はあの日のことを、忘れることができない。

「食堂に集合がかかりまして……。休部になるということで……。大変でした……」

 1959年創部の日産自動車野球部は親会社の経営合理化の一環により、09年限りで休部となった。都市対抗2度(1984、98年)、日本選手権1度(2003年)の優勝を誇り、社会人球界をけん引してきた超名門チームだ。

 伊藤は津名高(兵庫)、福井工大を経て95年に日産自動車に入社。コーチ兼任を含めて15年プレーし、10年連続を含む都市対抗13回出場で、98年と03年には三菱ふそう川崎の補強選手として優勝を経験している。社会人ベストナインには遊撃手として最多3度受賞。03年の第35回IABFワールドカップ(キューバ)では日本代表の主将として、銅メダル奪取へとジャパンをけん引した。

 休部当時、37歳。部員32人中、他チームへ15人が移籍しているが「日産の伊藤で終わる」ことを選択した。

「本当はまだ、野球をやりたかった……。『お前の力が必要だ!』という場所でプレーするのも、一つの考えではありましたが……。でも、育ててもらった日産から背を背けることはできない。移籍は頭になかったです」

 会社に残る最大の理由は「使命感」だった。

「私が言うのもおこがましいですが、(日産に)いなければいけない、と。休部になれば当然、新たな野球部員は入社してこないわけです。その(会社に残る)中心にいないといけないと思っていました」

「廃部」ではなく、あくまで「休部」である。つまり、活動を再開する道が残されているという状況だ。「日産魂」を持った人間が会社に在籍していなければ、野球部復活への熱意も、経営者側には直接的に伝わらない。休部である野球部を「守る立場」こそが、伊藤自身が背負うべき役割と考えたのだ。

10回目の野球教室を開催


 休部以降、毎年、日産自動車野球部OBによる野球教室を開催している。今年はちょうど10回目。11月30日、厚木市内の球場には野球部OB21人、そして、今回は広島・長野久義(Honda)ら同社野球部にゆかりのある特別ゲスト14人が講師として参加した。厚木市内、伊勢原市内の小学生約140人が約3時間、往年の社会人戦士から直接指導を受けている。進行役の伊藤はマイクを手に、グラウンドを縦横無尽に走り回り、子どもたちを盛り上げた。「本当にありがたいですよ」。特別ゲストが多数集結したのも、伊藤の人望の厚さを証明するものである。

 2019年は社会人野球を統括する日本野球連盟の設立70周年と、都市対抗野球大会が第90回の節目ということで「平成ベストナイン」が制定された。伊藤は遊撃手部門で同タイトルを獲得している。

「入れ替わりが激しいですから、会社の中にも(休部から)10年経過すると、野球部があったことすら知らない社員もいる。社内報でも紹介していただきましたが、10年続いた野球教室の活動を含めて、日産自動車が世の中、表舞台に露出されることはありがたいこと。現役時代を通じて、地域への感謝を忘れずに取り組んできたチームです。一つひとつがつながっていって、復活するところまでに行き着くとうれしいです」

 伊藤のポーズ写真に写り込んでいる横断幕は当時、所属部署が制作してくれたという。宝物であり、自宅に大切に保管している。まさしく、野球部が職場の代表として、会社内の士気高揚の役目を果たしてきた歴史がある。

 かつて、東京ドームを暴れ回った赤いユニフォーム。「日産魂」とは何か? 伊藤は言う。

「準備、集中、積極性です」

 野球と仕事は表裏一体。グラウンドで培われたマインドは、職場でも生かされる。野球とは、人生を教えてくれる。本社勤務の伊藤は愛すべき「NISSAN」のために、汗を流し続ける。復活の日を信じて……。

文=岡本朋祐 写真=BBM

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