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郭源治、郭泰源、荘勝雄&呂明賜、大豊泰昭「1980年代、台湾から来た男たち」/プロ野球20世紀の男たち

週刊ベースボールONLINE

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

“二郭一荘”の時代



中日・郭源治

 1980年オフ、巨人の王貞治が通算868本塁打を残して、静かにバットを置いた。ひとつの時代が終わった瞬間だったことは間違いない。ただ、振り返れば、王を故郷の英雄と仰ぐ男たちの時代が始まった瞬間だったのかもしれない。80年代は、台湾から来た男たちが日本のプロ野球で躍動した時代でもあった。

 80年代は“二郭一荘”と言われた。2人の郭と、1人の荘がいたためだ。戦前の1リーグ時代には巨人、阪神で投打に活躍した“人間機関車”呉波(呉昌征)がいたが、その当時の台湾は日本の統治下で、呉は甲子園にも出場している。

 台湾の選手が日本のプロ野球で活躍する環境が整い始めたのは80年だ。投手の高英傑、捕手の李来発が来日し、南海へ入団。ともに言葉の壁と戦い、異文化とも戦いながらのプレーだったが、李は外野手に転向し、のちに高もヒジ痛で外野手となって、同郷の2人で外国人枠と定位置を争うという、なんともチグハグな展開だった。

 翌81年7月に中日へ入団したのが“二郭”の1人、郭源治だ。同じく投手の李宗源は79年にロッテの練習生となっており、最初に誘いがあったものロッテで、2人で一緒に入団する話も決まりかけていたが、後発の中日のほうが熱心だったことで、入団を決めた。

 日本のプロ野球では、王の存在しか知らなかったというが、2年目の82年から先発に定着して優勝に貢献。翌83年から4年連続で2ケタ勝利に到達した。一方の李は、現役時代は毎日でプレーし、ロッテのスカウトとなっていた三宅宅三の養子となって三宅宗源となり、81年に日本人選手としてロッテ入団、84年に王が監督となった巨人へ移籍したが、結果を残せず、翌85年オフに引退している。


西武・郭泰源

 その85年、新たに2人の投手が日本のプロ野球に飛び込んでくる。1人は“二郭”の1人、郭泰源と、もう1人は“一荘”荘勝雄だ。郭泰源は84年のロサンゼルス五輪で銅メダル獲得に貢献し、その秋には西武のキャンプに参加。迎えた85年は開幕から快進撃、4月には月間MVPに選ばれ、6月にはノーヒットノーランを達成する。最速156キロの快速球は日本のプロ野球にも衝撃を与え、“オリエンタル・エクスプレス”のニックネームも絶妙だった。

 そんな郭泰源にライバル心を燃やしたのが荘で、三宅のいたロッテへ入団。“二郭”とは対照的な技巧派で、黄金時代の西武でド派手な快速球で飛ばす郭泰源の一方で、低迷するロッテの技巧派が地味に見えた部分はあった。それでも、86年にはクローザーとしてチームを支え、87年からは2年連続13勝、89年には初めて郭泰源と投げ合った試合を完封で飾っている。

 この間、セ・リーグでクローザー転向を成功させたのが郭源治だった。87年に就任した星野仙一監督に抜擢され、Vイヤーの88年には37セーブでMVP。その88年に優勝を逃した巨人で旋風を巻き起こしたのが呂明賜だった。

“アジアの大砲”の旋風に燃えた大豊



中日・大豊泰昭

 王にあこがれ、日本のプロ野球、そして王のいる巨人で実力を試すことを夢に見ていた呂は、クロマティの故障離脱で外国人枠を突破すると、初打席本塁打の鮮烈デビュー。以降9試合で7本塁打を放って“アジアの大砲”と呼ばれる。

 そんな呂の活躍を見ながら、ひたすらバットを振り続けていたのが大豊泰昭だった。名商大で4年、中日の球団職員として1年を過ごし、その88年の秋にドラフト2位で中日に指名され、翌89年に入団。フォーム改造が合わず、“ルー台風”は急激に勢力が衰え、“第3の外国人”が定位置となっていったが、外国人枠の制約がない大豊は1年目から出場100試合を突破する。王へのあこがれは呂どころではなく、92年からは王と同じ一本足打法にも挑戦。94年には本塁打王、打点王の打撃2冠に輝いた。

 その94年は、91年にはMVPにも選ばれた郭泰源にとって最後の2ケタ勝利。翌95年は西武の連覇が途切れたシーズンでもあった。その95年から荘、郭源治、郭泰源と、次々に帰国していく。大豊は98年に移籍した阪神を経て中日へ復帰して、21世紀までプレーを続けた。

写真=BBM

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