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星野仙一、鈴木孝政&小松辰雄「竜の“速球王”三者三様」/プロ野球20世紀の男たち

週刊ベースボールONLINE

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

星野と鈴木でセーブ王をリレーした70年代



中日・星野仙一

 巨人のV9という空前絶後の黄金時代を終わらせたのは中日だった。このときのことを、

「中3日くらいで、先発、リリーフ、リリーフ、先発の繰り返しだったな。(リリーフも)1イニング限定じゃないし、必死だった」

 と振り返るのが星野仙一。セーブ制度が導入された1年目でもあり、15勝10セーブで初代セーブ王、沢村賞に輝いている。明大では1年生からエースとなって通算23勝。ドラフト1位で1969年に中日へ入団した。もともと阪神ファンだったが、巨人のスカウトから熱心に勧誘され、巨人の指名を待ったが、巨人が1位で指名したのは武相高の島野修で、

「星と島を間違えたんじゃないか」

 と憤り、以降、巨人に牙をむくようになる。2年目までは背番号22。3年目の71年に杉下茂、権藤博らが背負った中日のエースナンバー20を継承した。巨人のV10を阻んだ中日だったが、次に優勝するのは82年。星野の現役ラストイヤーでもある。巨人戦は通算35勝31敗。相次ぐ故障で、じわじわと球速は落ちていき、それでも投球術と気迫、いわゆる“顔”で抑えたが、若手時代は速球が武器だった。

「何年目だったか、ナゴヤでの巨人戦で、巨人の投手コーチだった藤田(藤田元司)さんが『仙ちゃん、速いなあ』って。敵の投手コーチが、しかも、あの藤田さんが、ですよ。これは間違いない、と、その気になっちゃった。ひょっとしたら1年目なんか180キロ出てたかもね(笑)。顔だけ180キロだ、と言われるだろうけど」

 と笑って振り返る。星野の場合、打者との駆け引きを繰り広げた現役生活の後半、燃えまくった監督時代の印象が上書きされている部分もあるだろう。一方、星野の後に続いた竜のエースたちは、その速球でインパクトを残す。


中日・鈴木孝政

 星野に続いて2代目セーブ王となったのが鈴木孝政だ。75年からリリーフがメーンながら3年連続で規定投球回に到達し、3年連続セーブ王。76年には防御率2.98で最優秀防御率、77年は星野、広島の高橋里志と最多勝を争い、

「最後は高橋さんが20勝で、星野さんと僕が18勝。星野さんに嫌そうな顔で『しつこい』と言われたことがあります(笑)」

 しなやかなフォームから、浮き上がるような快速球を投げ込んで、打者を圧倒した。

「お客さんに速い球で“魅せたい”という思いもありました。晩年は何をやってもいいから勝ちたいでしたけどね(笑)」

 星野と同様、先発とリリーフでフル回転した鈴木だったが、やはり故障に見舞われる。右ヒジ痛で低迷したが、先発としてカムバック。84年には16勝を挙げ、カムバック賞も贈られた。

小松が投げ込んだ“2種類”の快速球



中日・小松辰雄

 一方、最後まで速球にこだわったのが小松辰雄だ。頭角を現したのは、やはりリリーフとして。スピードガンによる球速の表示が球場に導入され始めた2年目の79年に150キロ台を連発して“スピードガンの申し子”と呼ばれた。

「当時のスピードガンは球速が出ない。いまなら160キロは出てると思いますよ」

 と小松は胸を張る。当時は変化球を駆使する投手が増える傾向にあったが、小松の登場であらためて速球が注目を集めるようになった。だが、やはり故障とは無縁ではなく、84年には星野の背番号20も継承したものの、Vイヤーの82年に右足の内転筋を痛めており、それが慢性化。それでも快速球を投げ続けた。

 変わったのは投球スタイルではなく、速球の質だ。フォームを修正したことで制球力、キレが増し、鈴木の「初球は遅い真っすぐをド真ん中に投げてみろ。絶対に打ってこない」という助言もプラスとなって、85年には防御率2.65、17勝、172奪三振で“投手3冠”。87年にも17勝を挙げて2度目の最多勝に輝いた。

 顔で180キロの星野か、速球で魅せた鈴木か、スピードガンの小松か。この3人で誰が最も速いか、という話題で酒を酌み交わしたら、確実に飲み過ぎてしまいそうだ。議論が過熱して酒場から退場処分を受けないように。ちなみに、監督として退場を言い渡されるシーンも名物だった星野だが、現役時代は1度もない。

写真=BBM

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