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この感情の名前を教えてくれ、米津玄師「馬と鹿」の意味とは?

UtaTen

大泉洋主演、TBS日曜劇場『ノーサイド・ゲーム』。

このドラマは大泉洋演じる、大手自動車メーカー経営戦略室次長の君嶋隼人が、上司の意向に歯向かい左遷され、横浜工場の総務部長と低迷するラグビー部のゼネラルマネージャーの兼務の命によって、自身と共にラグビー部を再起していく物語である。

この物語の根底にある、理不尽に襲い掛かる逆境に対して、傷だらけでも、不器用でも、諦めずに立ち向かっていく、というテーマを、米津玄師は、この『馬と鹿』にて詩的に描いている。

その意味を独自に解説していく。

痛みでわかる心




春は、希望の季節だ。

別れもあれど、出会いの多い季節であり、恋心の芽生えや、恋愛事が始まることを、「春が来た」と形容したりする。

何か新しいことが始まって出会える、その希望と期待感に満ちているのが春だ。

しかし、ここでは、およそ希望を感じさせない言葉が、春に付随している。

“歪んで”、”傷だらけ”というネガティブな言葉が春に飾られており、そこからは、決して希望も期待もない出会いがこの人物にあったことがわかる。

だが、彼はその、望まない春に与えられた痛みを、誤魔化さずに受け入れて進もうとしているのだ。

その現実から逃避するという”麻酔”を打ってしまえば楽になるはずが、彼は痛みと共に歩いている。

それは、“体の奥底”で響いている、まだ生きようとする強い意志から来る行為なのだ。

痛みを感じるということは、まだ自分の身体と心が生きている証であり、その傷を治して、未来へ向かって更に強く生き続けたいという証でもある。

望まない現在を覆したい、壁を乗り越え未来へ生きたい。と、まだ“生き足りない”という強い声が、前に足を踏み出させてくれるのだ。



何度も噛み続け、ようやく吐き出しガム。

しかし、まだ口に残った味の欠片を更に味わう。

その行為から、求める事象に対して、簡単に答えを出さず、何度も何度も試行錯誤して模索する執念深さが感じられる。

そして彼の、執念深さを持つ心の内の余計なものを捨て、底に残った唯一のものこそ、本当に大切にするべきものであることを、ここで教えてくれている。



目の前に現れた望まないモノ。

自分の前に立ちはだかるそれに立ち向かう為に、心が見せた自分が守りたい大切なモノ。

それを強く想う感情の名前が、“愛”というものでなければ、馬鹿な自分にはわからなかった。

そう唄う彼の言葉には、それがどんな感情であろうと、強く大事にして守りたいという願いが込められているのがわかる。

そしてその願いが成就して開く花こそ、夢であり、その名前こそ、明確に忘れてはならない名前なのであることを唄っているのだ。

またそれまでに負った傷の痛みを全て覚えていることこそ、ここまで生きてきた全ての時間に意味を与え、その願いの価値を失わせない大切なことなのであることがわかる。

揺るがない信念




何かに逆らって生きることは容易ではない。

そこに正当な理由があり正しい目標があったとしても、世間や社会、その場のコミュニティにある強い流れには、流されてしまった方が幾分楽だ。

しかし彼は、流されたくない明確な強い願いがあり、信念がある。

それゆえに立ち向かうのだ。

その強さに共鳴し、同じ願いを持ってくれる仲間もいるだろう。

だが、心に強さがあっても、その中に弱さが無いわけではない。

その自分の弱さを仲間に気づいて欲しいと、つい吐露してしまう時がある。

ここでは、そのどうしようもない人間らしさが表現されている。

その人間らしさがあるからこそ、願いへの素直さが更に強まるのだ。



逆境に立ち向かう度に挫かれ、転ばされて砂を噛む心。

それでも自問自答を繰り返し、何度でも立ち向かおうとする心が描かれている。

夜露で濡れた芝生も、やがて来る朝日が乾かしてくれる。

その時を今は待つのだ。



何度失敗を経験しても、負けない心はある。

だが、その失敗を笑って誤魔化せるほどの器用さは持ち合わせてはいない。

彼の人間らしい不器用さが、ここでは強く表れている。

その不器用で愚直な人間が持つ魂だからこそ、それは、何にも変えられない揺ぎなく強い信念であり、誰も奪えない崇高なモノなのである。

愚直ゆえの純粋




願いを叶えるために進む仲間の足にある似た傷は、同じ困難に立ち向かってきた証だ。

その証が持つ意味と関係を何かに例えようとすれば、様々な言い方ができる。

しかし、それをすることもなく、彼らは進める場所をただガムシャラに進もうとする。

願いの成就の為に揺れる花、それに付随して生まれる多くの花、その全てが咲こうが咲くまいか、見届けることなく、彼らは必死に走るのだ。



ずっと手放せずに縋りつく感情の意味が、本当は何なのか。

馬と鹿な自分には分かりそうにもない。

しかし、そこに縋りつきたい願いを守りたい心は本物であり、純粋なモノである。

そして願いの為に生まれた夢という花は、不器用で馬鹿な自分には、何にも変えることができない。

もはやそれは自分を支える全てであり、それ以外に代わりになるものなどない。

だから彼は、その花の名前を呼ぶしかない。

たとえ反発されようとも、たとえ罵られようとも、彼にはその花しかないのだから。

不器用で愚直に叫ぶその名前には、不器用で愚直だからこそ、何も飾ることのない純粋な願いと想いが込められているのだ。

馬と鹿な人間は、決して綺麗とは言い難い、人間らしい純粋さだけを持っている。



あまりにも強い願いは、他人から見ればくだらないモノに見えるかもしれない。

また自分でも、心のどこかで、どうしてこれほどまで守りたいモノなのか分からなくなるほど、くだらないモノとして映るかもしれない。

だがその願いが、どうしようもなく身体を離れてくれないモノであれば、本当に叶えたいモノであるといえる。

頭で理性的に選ぶ願いには、損得のリスクに応じて簡単に諦めが付くモノが多い。

しかしそのリスクを度外視して、どうしても手放せない願いは、人間というひとつの生き物が本能で選んだ願いなのだ。

その願いには、理性で選んだ願いには無い不思議な力があり、失敗に怯まない強い力に繋がっていく。

不器用で愚直で本能のままに進む馬鹿であることこそ、困難に立ち向える人間らしい純粋な力を手に入れるヒントなのだ。

米津玄師の『馬と鹿』に込められた願いは、ここにあるといえよう。

TEXT 京極亮友

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