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江川卓&原辰徳「1980年代G投打のスターが背負った宿命」/プロ野球20世紀の男たち

週刊ベースボールONLINE

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

原の加入で変わった江川



巨人・原辰徳(左)、江川卓。後ろは王貞治監督

 1980年はプロ野球の歴史、特に、その中心にいた巨人の歴史におって、分岐点だった。オフに長嶋茂雄監督が事実上の解任、そして王貞治が現役を引退。王は助監督として巨人に残ったものの、プロ野球を国民的な人気スポーツへと昇華させ、V9という空前絶後の黄金時代を引っ張った“ON”が去ったことに衝撃を受け、喪失感を覚えたファンも多かっただろう。

 さらには、西武では野村克也が、中日では高木守道が、60年代から70年代のプロ野球を支えてきた名選手もグラウンドを去った。ほぼ時を同じくして、巨人にドラフト1位で指名されたのが原辰徳。巨人にあっては“ON”の穴を埋める存在であり、それだけで相当な重圧なのだが、喪失感に覆われたプロ野球に現れた若きスターには、その後のプロ野球を引っ張る宿命さえもが背負わされているようにも見えた。

 ところが、そんな明るい若者の存在が、もう1人の男が背負っていた宿命を少しだけ、軽くしたように見えた。江川卓だ。原と同様、高校、大学で注目され、ドラフトでは“江川事件”とも言われる前代未聞の騒動となり、一転、プロ野球では“悪役”となり、巨人でも孤立しているように見えた右腕。大学時代から仲がいい原の加入で、目に見えて笑顔が増えた。

「ようやく(ドラフトでの浪人時代の)1年間のブランクが戻った」(江川)

 というだけではなかっただろう。翌81年、江川はキャリアハイ。20勝、221奪三振、防御率2.29は、すべてリーグトップの数字でMVPに。二塁手としてスタートした原だったが、三塁の中畑清が故障離脱したことで本職の三塁へと回り、そのまま22本塁打を放って新人王。藤田元司監督1年目の巨人は4年ぶりリーグ優勝、V9以来となる日本一に輝いた。

 ただ、彼らの重圧との戦いが終わったわけではなかった。江川は主軸を目の覚めるような快速球で抑えたと思えば、下位打線に痛打を浴びることも多く、その落差の激しさもあって、たびたび批判にさらされる。“ON”と比べられ続けた原は、83年には四番打者として自己最多の103打点で打点王にも輝いているが、「勝負弱い」というバッシングを受けた。これが巨人のエース、そして巨人の四番が背負う宿命なのかもしれない。ただ、その重責を彼らが放棄したことは、一度もなかっただろう。

巨人のエースと四番が繰り広げた真っ向勝負


 江川はライバルの阪神で不動の四番を担った同い年の掛布雅之と名勝負を演じ続けた。終速の落ちないインハイのストレートに徹底してこだわり、最高の球を投げ続ける。一方の掛布も、最高のスイングで応えた。同じ阪神で、2年連続で三冠王となったバースがプロ野球記録に迫ったときにも真っ向勝負。85年にはシーズン55本塁打を阻止し、86年には7試合連続本塁打を浴びた。

 原も負けてはいない。86年には広島の“炎のストッパー”津田恒実の剛速球をファウル。左手首を痛めた状態でのフルスイングは骨折につながり、引退まで自分のスイングを取り戻すことができなくなったが、

「いまだに、あのスイングは自分の一番いいスイングだったと思っています。折れたことに悔いはなかったですよ」(原)

 80年から2ケタ勝利を続けていた江川が突然、引退を発表したのが87年オフ。13勝を挙げながらの引退だった。学生時代に“怪物”と呼ばれた男は、プロでは未完に終わったかのようにも見えたが、引退会見では当時、少年たちに人気だったマンガを思い出させるような発言をして物議を醸すなど、ある意味では最後まで、この男らしさを貫いたようにも見える。

 一方、ベテランとなった原は、最後まで宿命と戦い続けた。89年には外野へ、92年には一塁へとコンバートも繰り返し、巨人で初めて1億円プレーヤーになったものの、アキレス腱の断裂など故障に見舞われ、それでも大事な場面で「勝負強さ」を発揮してチームに貢献した。

 80年代は巨人戦テレビ中継の黄金時代でもある。確かに毀誉褒貶も多かった。ただ、それはアンチも含めて、もっともファンを一喜一憂させた2人だったからではないだろうか。

写真=BBM

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