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工藤公康&渡辺久信「西武黄金時代の若き左右両輪」/プロ野球20世紀の男たち

週刊ベースボールONLINE

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

新人類のクドちゃんナベちゃん



西武・工藤公康、渡辺久信

 1980年代の中盤、新たな価値観を持った当時の若者を指す“新人類”という言葉が流行した。国内の景気は拡大を続け、それがバブルだとは知る由もなく、数年後には木っ端微塵に砕け散るなど夢にも思わなかった時代だ。

 一方、プロ野球では、巨人に代わる盟主として西武が名乗りを上げていた。チーム内の世代交代にも成功し、若い戦力が躍動する姿は、明るい水色のユニフォーム、明るい緑の映えた西武球場とも相まって、新しい時代を象徴するように見え、黄金時代に突入していく西武のように、我々の未来は明るいものだと信じて疑わなかった気がする。

 とにかく明るい時代だった。暗い性格の人を指す“ネクラ”という言葉が流行したのも、明るい人が多かったからだろう。そんな、明るくて、若い“新人類”が、黄金時代の西武にいた。その中で、新世代の左右両輪として黄金時代を牽引したのが工藤公康と渡辺久信だ。86年に入団した清原和博とともに“新人類”として流行語大賞の表彰式に出席。その陽性のキャラクターを生かして、ニュース番組で『クドちゃんナベちゃんのキャンプFRIDYA』なるコーナーを持っていたこともあった。

 話をグラウンドに戻す。もちろん、陽気なだけの男たちではない。工藤は82年に入団。ドラフト6位という下位での指名だったが、就任したばかりの廣岡達朗監督から抜擢され、「坊や」とかわいがられながらも1年目から一軍に定着した。ドラフト1位で指名され、“ツッパリ”スタイルの渡辺が入団したのが84年。ともに頭角を現したのは廣岡監督ラストイヤーでもある翌85年で、2人そろって8勝、工藤は防御率2.76で最優秀防御率に輝き、渡辺は11セーブもマークしている。

 森祇晶監督となった86年に2人そろって初の2ケタ勝利、渡辺は16勝で初の最多勝に。工藤は広島との日本シリーズで、3敗1分で迎えた第5戦(西武)でサヨナラ打を放ち、史上初となった第8戦(広島市民)では胴上げ投手となってMVPにも選ばれた。

 ここから工藤は加速する。翌87年には防御率2.41で2度目の最優秀防御率、巨人との日本シリーズでは2年連続MVPとなり、日本一が決まった第6戦(西武)の胴上げでは輪に加わらず、センターのカメラに向かってジャンプ。近年では当たり前になっている光景だが、そのパイオニア(?)でもあった。

 渡辺も負けていない。続く88年には15勝で2度目の最多勝。90年には自己最多の18勝で3度目の最多勝に輝いた。この頃、「若い頃は朝まで飲んで次の日に投げても勝っていた」と豪語する工藤は急失速している。その原因は肝機能障害。不振の原因が不摂生というのも、この時代らしい。

20世紀の“新人類”が21世紀の指導者に


 90年代に入り、バブルが崩壊。国内の景気は急激に冷え込み、人々は目に見えて混乱した一方で、西武の黄金時代は堅調に推移していく。夫人との二人三脚で食事管理を徹底して復活した工藤は91年に自己最多の16勝。93年には防御率2.06で3度目の最優秀防御率、初のMVPに。渡辺は数字を落とし、タイトルからは遠ざかったが、92年、94年とチーム最多の投球回に投げまくるなどタフネスぶりは健在だった。だが、その94年オフ、工藤がFAでダイエーへ移籍する。そして翌95年、西武の連覇も止まった。

 工藤が低迷するダイエーでキャリア唯一のリーグ最多15敗を喫した96年に、西武に残った渡辺はノーヒットノーランを達成。翌97年オフに世代交代が進む西武を戦力外となり、ヤクルトを経て99年に台湾球界へ。指導者としての勉強というつもりだったが、コーチ兼任で登板すると最多勝、最優秀防御率の投手2冠。その99年、工藤はダイエーを初優勝、日本一に導き、自身4度目の最優秀防御率、2度目のMVPに輝いている。

 そして2019年。工藤はソフトバンク監督として、渡辺は西武GMとして、かつての“新人類”は、ともに手腕を発揮している。

写真=BBM

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