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宮台真司は『サタデー・フィクション』に何を感じたのか? ロウ・イエ監督と考える美学的な生き方

Real Sound

ロウ・イエ:宮台さんのこの映画の見方に同意します。というのもですね、ユー・ジンはフランス人の義父・ヒューバートに「これは私が演じる最後の役目よ」と言います。それは彼女が「スパイ」としてなのか、それとも「俳優」としてなのか、そこでもう見分けがつかなくなっているということです。ユー・ジンの恋人であり演出家のタン・ナーも言います。「僕は駒に過ぎないのか」と。ヒューバートもまた「死者は紙面を知らず」という伝聞を打ちます。みんなそういうことと関連があると思います。

宮台:その虚実混融を、暗部の潰れたモノクローム画面と、揺れ続ける手持ちカメラが、効果的に体験させます。登場人物たちは絶えず不完全情報下で足掻きますが、観客も同じく不完全情報下で目を凝らす。登場人物たちにとっても観客にとっても、頼れるのは客観ではなく主観の情動です。情動の流れを、劇中で流れるジャズが劇伴として機能して印象付けます。

●スパイの恋

宮台:次に「スパイの恋」。多くのスパイ映画がスパイの恋を描きます。最近ではブラッド・ピット主演『マリアンヌ』。スパイの密命は敵国の共同体に潜ること。潜って敵国の人に恋したふりをする内に虚実の境が崩れる。最後は密命を放棄して恋を貫徹せんとする。恋の貫徹は死を意味する。でもその死は挫折ではなく輝かしい貫徹だ……定番のストーリーです。

 本作はイレギュラー。演出家タン・ナーが女優ユー・ジンに恋しつつ、疑い続けるからです。かつて恋人だと思ったのも勘違いで、スパイ活動の一環では? 上海に来たのもスパイとしての任務貫徹が目的なのでは? この未規定性がカセクシス(溜め)になって、最後の最後にカタルシス(浄化)が訪れます。この溜めと浄化を、タン・ナーと同じく観客も共有するのです。

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 「スパイ」と「恋」は対照的。おのおの取替可能性replaceabilityと取替不能性irreplaceabilityを隠喩します。スパイは取替可能な部品。死んだら別のスパイが送り込まれる。恋は違います。恋の相手は取替不能。だからスパイが恋を演じる時、本来は取替可能な相手を、取替不能と見做すが如く演じます。さてユー・ジンにとってタン・ナーは、取替可能か、取替不能か。

 タン・ナーはかつてユー・ジンとは恋仲だったと信じようとする。だから再会して程なくキスをします。でも彼は疑念を抱き続ける。恋人に再会すべく女優として来たのか。密命を帯びたスパイとして来たのか。実際、元夫暗殺の謀略に加担した。だが蘭心劇場の大混乱後、全てが終ったら港湾のカフェで待つとの伝言。来る筈もないと思いつつ彼は待って待って待つ。

 果たしてユー・ジンは密命を裏切り、日本人将校など並み居る敵を打ち倒し、満身創痍でカフェを訪れます。タン・ナーは彼女の本気の恋を知り、それが彼女の恋の貫徹となる。恋の貫徹と同時に彼女は死にます。長いカセクシス(溜め)の後、タン・ナーも観客も、カタルシス(浄化)を得ます。その意味で間違いなくバッドエンドではなくハッピーエンドです。

 途中に出てくるニーチェの言葉も伏線回収されます。曰く、愛は過剰な贈与。見返りを求める交換ではない。元々は彼が神について言いたかったこと。信仰は過剰な贈与。見返りを求める交換ではない。愛は本物だったと伝えるためにだけタン・ナーの元に命を賭して赴いたユー・ジンの振る舞いが過剰な贈与。僕らに欠けている過剰な贈与を指摘されたと感じます。

ロウ・イエ:宮台さんのおっしゃるとおりです。愛というのはユー・ジンにとっては自分のためのものであり、タン・ナーとはそれは関係のないもので。スパイという身分の特殊性というのは、他人に与えられた任務を完結しなければいけないということ。常に他人のために任務を遂行して、自分を持たないんですよね。この映画の中で、ユー・ジンはずっと他人の道具であり、駒なんです。この映画の一番特別なところは、彼女が道具として任務を果たした後にあるのかもしれません。彼女が反抗するのは、任務を果たしたあとだということに皆さんお気づきになるかと思います。実は彼女の道具としての身分への反抗であって、愛のためだけではないのです。ユー・ジンは全編を通して、長い間道具として生きている。でも、最後に彼女が蘭心劇場に戻ってきたところが、自分で運命を決めた瞬間なわけです。それまで、舞台の外ではパスカルから指示を受け、舞台の上では演出家から指示を受けてきた。つまり彼女は、舞台の上でも外でも、道具としての役割を果たしてきた。最後の反抗は、パスカルからの指示への反抗でもあり、演出家への反抗でもある。彼女は離れないし、演出家の指示通りに芝居をしません。

宮台:相手を取替可能な道具として扱わず、過剰な贈与の相手として見做した時にだけ、自分も取替可能な道具であるのをやめられます。僕らは今、恋愛においてすら相手を取替可能な道具と見做す作法にはまり、それで自らを取替可能な道具に貶めています。ユー・ジンの髪型や佇まいが『攻殻機動隊』の草薙素子に似るので(笑)、日本人に突きつけられた匕首だとも感じました。

●良い社会で人は幸せか?

宮台:本作は宮﨑駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』に似ています。平和で自由な民主国家。人は幸せか。誰も本気で恋をせず、希望に命を賭けない。宮﨑駿は怒っている。『君たちはどう生きるか』の題名は謎掛け。原作は満州事変の1931年に書かれ、全体主義の時代だからこそ民主主義の価値を貫徹せんとする大人がいて、子供を感染させたことを描きます。

 今の日本と中国の対比にスライドできます。日本の大学生が言う。日本は民主主義で自由。中国は権威主義で不自由。だから中国は日本より悪い社会。そうか。日本の大学生には悩みを話せる友達がいない。寝ても覚めても想う恋をした経験もない。中国の諺「上に政策あれば下に対策あり」が正しい。よくない社会だから助け合い、知恵や価値を共有しようとする。

 現にロウ・イエ監督は、幾度も上映禁止措置を喰らい、一時はフランスで撮っていたこともあるのに、敢えて帰国して名作を連発しておられる。「平和で自由な社会だから、人が幸せになり、素晴らしい表現をする」というのは錯覚。1941年の上海。明日の命さえ保証されないスパイだからこそ主人公が命懸けの恋をした。『二重生活』の主人公とは対照的です(※欄外の「インタビューを終えて」を参照)。

ロウ・イエ:宮台さんの意見を聞いて僕が思ったのは、日本も中国も両方の社会が大きな困惑に直面しているということ。現在の状況は1941年のこの時代とそっくりじゃないですか。『サタデー・フィクション』に出てくる人々は、みんな困惑に直面しているわけです。

宮台:なのに、ユー・ジンやタン・ナーの生き方は、現在の日本人たちとは違って素晴らしい。

ロウ・イエ:社会の道具ではあるのですが。

宮台:だからこそ自身が道具であることに違和感を感じ、ちゃんと生きようと思っている。

ロウ・イエ:ユー・ジンは自分が道具であるという状況に反抗するわけです。反抗して、反抗を試みるんだけど、最終的に失敗してしまうという物語でした。

宮台:道具である自分に抗え。それにはまず他人を道具として扱うな。それで初めて道具である自分に抗える。成功する見込みがあって抗うのではない。むしろ失敗すると分かっていても抗う。それが美学的な生き方だ。現在に適応した日中両国民への激しいメッセージです。以前監督が仰言った通り、体制が違うのに、両国の人々の生活はどんどん近接しています。

●インタビューを終えて

 日本公開の前日、多忙なロウ・イエ監督が30分だけ割いて下さった。かつて『二重生活』のプロモーションで来日された折の公開トークで、僕が「巷ではヤリチン男に制裁が下るフェミニズム映画だとされているが、IT事業で大成功したのに“こんな筈じゃなかった”的な不全感ゆえに過剰な空回りをする男の映画だ」と評したのを覚えておられ、謝意を語られた。

 80年代半ばから約十年間、僕は『二重生活』の主人公に似た生活を送っていた。“こんな筈じゃなかった感”ゆえに新興宗教に入るのも、“こんな筈じゃなかった感”ゆえに強迫的なナンパ師になるのも、所詮は同じ神経症だと感じていた。だから深く刺さった。監督の作品はいつも刺さるが、今回の映画は、様々な偶然の一致もあって他人事として観られなかった。

 古い日本映画に通暁し、今の日本社会の情況も理解しておられる監督は前回、中国の都市部の生活はどんどん日本に近づき、やがて区別できなくなると仰っていた。今回はあまりにも短い時間だったので、尋ねたいことは数多あったが禁欲し、監督に了解をとった上で、僕が受け取った体験を監督にフィードバックし、コメントを返してもらう形にさせていただいた。

(文=宮台真司)

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