チームの上位進出の鍵となるのが助っ人外国人選手の存在だ。近年では、メジャーリーグ経験のある選手も数多く来日し、1軍登録枠を巡って競争も激しくなっている。今回は、各球団の歴代助っ人外国人選手をランキング形式で振り返り、活躍した選手の傾向を探っていきたい。【阪神・投手編】
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※成績はチーム在籍期間の通算成績、ランキングはこれを基準に作成。
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第5位 ラファエル・ドリス
右投右打
在籍期間 4年(2016〜2019)
成績 208試合(206回)、13勝18敗96セーブ28ホールド、227奪三振、防御率2.49
クローザー、セットアッパーとして活躍したドリス。最速161キロの速球と落差の大きいフォークを武器に、多くの三振を奪った。
ドミニカ共和国出身、身長195センチ、体重109キロ。ディビナプロビデンシア高から2004年にアマチュアFAでシカゴ・カブスに入団。11年に同球団からメジャーデビュー。12年には自己最多の34試合に登板したが、防御率6.39と安定感はなかった。その後13年の5登板を最後に、マイナー暮らしが続いた。
転機となったのは、日本球界挑戦だ。2016年に阪神に入団。同じドミニカ出身のマルコス・マテオとともに、呉昇桓の穴を埋める活躍が期待された。開幕は2軍で迎えたものの、1軍昇格後は主にセットアッパーを担った。同年は疲労や故障での離脱もあったが、34試合登板で8セーブ、9ホールド、防御率2.12という成績を残した。
翌17年にはシーズン通してクローザーを任され、63試合に登板し、37セーブをマーク。最多セーブのタイトルを獲得した。翌18年にも32セーブ、19年は19セーブ、10ホールドとブルペンの屋台骨を支え、試合終盤の重要な局面を担った。2020年は、トロント・ブルージェイズでメジャー復帰を果たすと、24登板で防御率1.50と抜群の数字を記録。海の向こうで、日本球界を経る前とは別人のような姿を披露した。
第4位 マット・キーオ
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右投右打
在籍期間 4年(1987〜1990)
成績 107試合(678回1/3)、45勝44敗、398奪三振、防御率3.73
投手陣の柱としてチームを牽引したキーオ。高い制球力を誇り、打たせて取る投球スタイルで勝ち星を積み上げた。
アメリカ合衆国出身、身長188センチ、体重85キロ。カリフォルニア大ロサンゼルス校から1973年ドラフト7巡目(全体167位)でオークランド・アスレチックスに入団。77年に同球団からメジャーデビューすると、翌78年にはオールスターにも出場した。だが、79年は一転2勝17敗と大きく負け越した。それでも、80年には16勝13敗と成績をV字回復させ、カムバック賞に輝くと、同年から3年連続2桁勝利。ローテーションの一角として試合を作った。
83年以降は、ニューヨーク・ヤンキース、セントルイス・カージナルス、シカゴ・カブス、ヒューストン・アストロズと渡り歩き、メジャー通算58勝(84敗)の実績を引っ提げて日本球界へと移った。
1987年、阪神では初年度から開幕投手を務め、6完投2完封を含む11勝をマーク。最下位に沈む阪神で孤軍奮闘した。翌1988年は12勝を挙げ、防御率はキャリアハイの2.76。これはリーグ6位の数字だった。1989年には自己最多201回を投げ、15勝&8完投。この活躍もあって、阪神は3年ぶりに最下位を脱している。しかし翌年、故障の影響もあり7勝にとどまると、この年限りで退団。阪神も再び最下位へと転落した。
その後キーオは米国に戻るも、メジャー復帰は叶わなかった。そして2020年5月、64歳で逝去している。
第3位 ジェフ・ウィリアムス
左投右打
在籍年数 7年(2003〜2009)
成績 371試合(371回2/3)、16勝17敗47セーブ 141ホールド、418奪三振、防御率2.20
セットアッパーとしての活躍が目立ったウィリアムス。左のサイドハンドから繰り出す150キロ超の速球と、切れ味鋭いスライダーは相手チームの脅威となった。
オーストラリア出身、身長183センチ、体重88キロ。サウスイースタンルイジアナ大から、アトランタオリンピック(1996年)・オーストラリア代表としての活躍もあり、同年にロサンゼルス・ドジャースと契約。99年に同球団からメジャーデビューを飾ると、4年間で37試合に登板した。またこの間に代名詞となるサイドスロー転向を決めている。
阪神では2003年からプレー。開幕当初はセットアッパーを担ったが、チーム事情で急遽クローザーを務めた。最終的に52試合に登板し、25セーブ、防御率1.54と抜群の安定感を見せ、チームのリーグ優勝に大きく貢献した。
2005年には久保田智之、藤川球児とともにそれぞれの頭文字をとって「JFK」と呼ばれる勝利の方程式を形成した。同年は75試合登板で37ホールド、防御率2.11をマークし、2年ぶりのリーグ優勝に貢献。以降も絶対的なセットアッパーとして君臨し、2007年には60試合登板で、42ホールド、防御率は驚異の0.96をマークした。
第2位 ジーン・バッキー
右投右打
在籍年数 7年(1962〜1968)
成績 239試合(1541回1/3)、100勝73敗、799奪三振、防御率2.31
巧みな投球術で打者を翻弄したバッキー。上手、横手を組み合わせる投球フォームと、ナックルボールが特徴だった。
アメリカ合衆国出身、身長191センチ、体重91キロ。サウスウエスト大から米球界入り。デトロイト・タイガース、ミネソタ・ツインズ、ロサンゼルス・エンゼルスの傘下チームで1962年までプレーした。
同年途中に入団テストを経て加入。来日1年目は8試合で0勝3敗、防御率4.70と秘めたポテンシャルを発揮するには至らなかった。翌63年には主に先発として33試合に登板し、8勝、防御率2.49の成績を残したが、リーグ投手10傑が200~340投球回くらいを投げ、全員防御率2点台以内、20勝投手も複数いる時代だったため目立った存在とは言えなかった。
飛躍したのは1964年。先発を軸に46試合(353回1/3)を投げ、29勝、200奪三振、防御率1.89と圧倒的な成績をマーク。最多勝、最優秀防御率、ベストナインを獲得し、外国人選手として初の沢村賞に輝いた。この活躍もあってチームはリーグ優勝を果たしている。
1965年6月28日の読売ジャイアンツ戦では史上40度目(リーグ13度目)のノーヒットノーランを達成。64年から5年連続2桁勝利を記録するなどハイペースで勝ち星を積み上げ、通算100勝にも到達した。通算防御率も2点台前半と抜群の安定感を誇っている。
退団後は、近鉄バファローズで1年間プレーしているが、0勝7敗、防御率3.27に終わっている。