■吉永小百合を敬愛する著名人たち
「小百合さんのような美しい顔は偶然にしろ何兆分の一の確率でできた顔だと思います。それゆえに守りつづけていかなければ……そうです、国が保護をして、国民の宝として有形文化財にしなければ、と痛切に感じております」(「タモリと賢女・美女・烈女」)
吉永小百合を敬愛する著名人として真っ先に思い浮かべる人物といえば、やはりタモリだろう。タモリは彼女を前にしてそう絶賛した。もちろん、タモリだけではない。先日も松本人志が会ってみたかった人の筆頭に挙げ、「まつもtoなかい」(フジテレビ系)で初対面が実現した。
■誰もが認める日本を代表する俳優
2007年には「文藝春秋」が「昭和の美女ベスト50」を発表した。林真理子、渡邉恒雄、池部良、山田太一、福島みずほ、立川志の輔といった幅広い著名人27名と読者にアンケートを実施し、ランキングが決定されたのだが、夏目雅子、高峰三枝子など故人が上位の多くを占める中、いまだ現役バリバリで活躍する吉永小百合が堂々の1位に輝いたのだ。
しかも、女性票は2位と100票近くもの差をつけダントツの1位(男性票では僅差だが2位)だった。つまりは女性にも絶大に支持されているということだ。誰もが認める日本を代表する俳優だ。
■高校1年で日活の所属に
小学生の頃は、映画「二十四の瞳」(1954年)で主人公の大石先生を演じた高峰秀子に憧れて教師を志した。学芸会では歌劇を演じるのも好きだったが、プロの役者になるなんて考えもしなかった。しかし、小学6年の頃、ラジオ東京(現・TBSラジオ)のラジオドラマ「赤胴鈴之助」(1957年)のキャスト募集があったときに、知り合いの紹介もあり、親が応募したことが役者の世界に入ったきっかけだった。
「経済的事情もあったのかもしれません」と本人が振り返るように、「山の手の庶民派」などと呼ばれたが、実際には戦後、父親が事業に失敗し、貧乏に育ったという(「文藝春秋」2007年2月号)。その後、テレビ、映画にも活躍の場を広げ、高校1年で日活の所属となった。
当初は年に2本の専属契約だったはずが、どんどん出演作が増え年15本も出演するように。お嬢様役を演じる一方で、農家や漁師の娘、果ては年齢に見合わないナイトクラブのマダムなど幅広い役柄を演じた。だが本人は「とにかく与えられた台詞を喋っているだけでしたから、アクション映画から青春映画までジャンルの違う作品に出ているのに、とくに演技を変えた記憶はないんです(笑)」(同)と振り返る。
■多忙の末の休業
やがて「二十代は本当にもがき苦しみました」(同)というように役者として壁にぶつかる。娘役から脱皮して大人の女性を演じられるようにならなければならないのに、自分で成長が止まってしまっているように感じた。スクリーンで自分の芝居を見るたびに自己嫌悪を感じてしまうほどだった。忙しすぎたのだ。
映画はもちろん、多数のテレビドラマを掛け持ちして撮影していたのだ。そしてついに声が出なくなってしまう。どんなに声を張っても、スースーと息の漏れるような声しかしなくなってしまった。結果、1年間休業することになった。
休業前はテレビドラマが仕事の主軸になっていたが、休業後はテレビドラマにはほとんど出演しなくなり、映画に活動の場をほぼ限定するようになった。その理由について吉永は、3時間ドラマを日本で初めて撮ったときに、王貞治が世界新記録を出すか出さないかとなり、新記録達成となればみんながそっちを見てしまうと感じたからだと語る。
そのとき、「テレビってそういうものなんだ。その瞬間、瞬間にインパクトの強いものを見るものだ」と思った。対して映画は100年単位で残るものだからそちらに専念するようになったという(「まつもtoなかい」2023年8月13日)。
■「俳優としてもうちょっと成長したい」
まさに吉永小百合には、100年単位で残る品と美しさがある。中居正広から「欲とかはあるんですか?」と尋ねられ「欲はない」と前置きしつつも「俳優としてもうちょっと成長したいというのはあります」(同)と付け加えた。今年、123本目の映画「こんにちは、母さん」が公開になった吉永小百合。
本当は「120本で線引きしようかな」と思っていたが「何かズルズルと」続けてしまったという。今度は125本を区切りにしようかという彼女だが、いまだ向上心が衰えない彼女に「区切り」など訪れないに違いない。
文=てれびのスキマ
1978年生まれ。テレビっ子。ライター。雑誌やWEBでテレビに関する連載多数。著書に「1989年のテレビっ子」、「タモリ学」など。近著に「全部やれ。日本テレビえげつない勝ち方」
100年単位で残る品と美しさを誇る俳優、吉永小百合
2023年10月1日