
『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1962年編表紙
ラッパではなかった?
今回は9月28日発売、1962年編からこの年開場した東京スタジアム話を3回に分けてお届けする。
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1961年当時、ビジターユニフォームの胸に『TOKYO』と入っている球団は読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、東映フライヤーズ、大毎オリオンズの4球団。
うち東映以外はすべて後楽園球場を本拠地としていた。
さらに東映が61年限りで駒澤球場を東京都に返還したため、62年、東京でプロ野球ができる球場は後楽園だけという異常事態となった。
その中で、東映は東京六大学関係者の大反対がありながらも東京都に仲介してもらい、学生野球の聖地・神宮球場の使用許可を得たが、できなかった場合、4球団が後楽園を本拠地とする可能性もあった。
実際、神宮使用が限られていたため、同年東映の後楽園利用も多く、スケジュール組みはかなり大変なものがあったはずだ。
しかも、どうしても優先権は人気球団・巨人にあり、他球団の不満が漏れ聞こえることも多くなっていた。
その中で大毎が自前球場の建設に動いたきっかけは、61年の開幕戦だった。
前年60年に優勝し、オープニングゲームを後楽園で開催しようとしたが、セの開幕と重なり、巨人が譲らない。結局、巨人戦がデーゲーム、大毎戦がナイターでの変則的なスケジュールとなった(当時、春先のナイターはまだ寒いと敬遠されていたようだ)。
このとき、永田雅一オーナーは「来シーズンまでに大毎は都内に球場をつくる」と宣言。ただし、自前球場については、これまでも何度も「つくる」と断言しており、当初はまた永田オーナー得意の大言壮語、ラッパかとも思われたが、実際に知り合いの政治家の協力も得ながら動いた。
まずは東京ガスの敷地が候補に挙がるも、諸事情で断念。名古屋鉄道の持っていた南千住の空き地を候補にし、買い取りが決まり、61年7月8日、永田会長の鍬入れから工事がスタート。そこから9カ月の突貫工事となった。