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『竜そば』『サマーウォーズ』『デジモン』 細田守監督作品から読み解く情報社会の変遷

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 20世紀の経済学でいえば、ジョン・M・ケインズの唱えた、政府が有効需要をトップダウン的に操作することによって(公共投資など)雇用を創出する計画統制経済の理論が前者だとすれば、フリードリヒ・A・ハイエクの唱えた、ケインズ的な設計主義を否定し、市場メカニズムに委ねる「自生的秩序」の考え(『隷従への道』)が、「創発」と近い。

 ともあれ、ネットの登場からSNSが普及していく2000年代いっぱいまでは、情報社会論やマネジメントの領域では、この創発的な考え方が主流だった。要するに、インターネットの素晴らしいところは、これまで一部のエリートや専門家が独占して独断的に決めてきたさまざまなことが、ネットの無数の「普通の人々」が互いに繋がりあうことによって、これからはいつの間にか勝手にすごいことが実現するようになることなんだ! 万歳! という楽観的な期待である。

 その象徴が、例えば2001年に立ち上げられた世界的なインターネット百科事典「Wikipedia」である。いうまでもなく、Wikipediaの執筆者は一般的な百科事典のようにその道の専門家ではない。項目を書き込んでいるのは世界中の一般人のボランティアだが、その彼らが天文学的な数字でその知識を局所的に結集することにより、普通の百科事典にも見劣りのしない相対的に確からしいコンテンツが、徐々に、しかも勝手に組織されていく。こういうものを、「集合知」ともいう。

 2009年の『サマーウォーズ』で細田が描いたのも、基本的にはこのWikipedia的な「創発」や「集合知」に対する期待や信仰である。

 人類と敵対するAIとして登場する(このあたりも、AIとの共存を好んで描く2010年代以降のリアリティとはずいぶん違う)ラブマシーンがOZの世界を混乱に陥れる。さらに、地球に帰還途中の小惑星探査機「あらわし」を世界500カ所以上ある各施設のどこかに落とそうとする。そんなAIと戦いピンチを迎える主人公の健二やヒロインの夏希を救うのは、自分のアカウントを提供してくれた全世界の何億という人々の力だった。

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 ところが、2020年代初頭の『竜そば』になると、こうした「創発」や「集合知」をめぐるオプティミズムは一気に影を潜める。いうまでもなく、その表現の変化は、その間の2010年代に起こった情報技術に対する“期待の急激な低下”にある。

 私たちはこの10数年を通じて、ネットやSNSが人類社会を単純に豊かで幸せにするのではなく、むしろいかに人々を愚かで盲目的にするのかを嫌というほど味わった。人々が繋がりすぎたことで起こるのは、日常的に個人の人生の幸不幸を左右する不毛な「炎上」や「フェイクニュース」であった。また、AIは私たちにとってより身近で親しみ深い存在になったが、他方で、リテラシーや創造性に対する負の影響も不安視されるようになっている。ともあれ、『竜そば』では「<U>」の何億という人々は、もはや主人公の鈴たちの単純な味方ではない。物語は、無数の人々がコラボレーションして何か大きな力を発揮するというより、そうした膨大なユーザの中から「たった一人」を見つけるという方向へシフトしている。ここには、ここ20年ほどの日本の情報社会をめぐる社会的公正/厚生のあり方の変化についての、細田のアクチュアルな思索の跡が窺われる。

アニメーション監督とテクノロジー

 ともあれ、AIを含めた現代のネット空間や情報技術を継続的に自作のモティーフにすることに対して、細田は、これまでにも多くのインタビューでさまざま語っているように、きわめて自覚的である。「僕は、インターネットの世界を舞台に、継続的に映画を作っている世界でも数少ない監督の1人だと思います」(※)。おそらくここには、細田の個人的な作家的資質や関心という以上に、世代的な文脈があるような気がする。

 視野を広げてみると、戦後日本の代表的なアニメーション監督には、その世代ごとの固有のテクノロジーとの関わりがあるように思える。1928年生まれ(少国民世代)の手塚治虫ならば「原子力」や「ロボット」。1941年生まれ(焼け跡世代)の宮﨑駿や富野由悠季ならば「兵器」やその「模型」。そして、1960年生まれ(新人類世代)の庵野秀明ならば「特撮」といったところだろう。1967年生まれ(バブル世代)の細田を挟んでその下となると、1973年生まれ(団塊ジュニア世代)の新海誠や、さらに(ロスジェネ世代)の山田尚子、1988年生まれ(ゆとり世代)の石田祐康などになると、本格的なデジタル世代とはいえ、ネットや情報技術を正面から作品で扱うということはほとんど見られなくなる(新海の場合は、作品のテーマというより、制作スタイルの面で先端的なデジタル技術と関わっていた)。

 おそらく新海や同年生まれの米林宏昌、山田、石田らの世代では、アーティストの落合陽一のいう「デジタルネイチャー」のように、情報技術やサイバースペースがもはや一種の自明化された「自然」と化しており、あえて主題化するというモチベーションが低いのではないだろうか。むしろ『PUI PUI モルカー』(2021年)で大ブレイクした1992年生まれ(さとり世代、ミレニアル世代)の見里朝希などは、あえてアナログなパペットアニメーションを採用している。あるいは主題的には、新海の『万葉集』(『言の葉の庭』)や山田の『平家物語』(『平家物語』)のように、彼らは古典的な想像力へ向かう傾向にある。

 それでいうと、日本社会では、確かに細田の周辺の世代が、コンピュータやインターネット、AIなどの情報技術への関心が相対的に高いと言える。

ヒッピー文化と結びついたアメリカの情報技術革命

 情報技術誕生の中心地であるアメリカでは、AIなどの情報技術への関心が日本とは大きく異なっている。アメリカで、パーソナルコンピュータやインターネットなどの情報技術革命の精神的支柱を担ったのは、細田のふた回りほど上、なんといっても日本の団塊の世代や全共闘世代にほぼ重なるヒッピー世代(ベビーブーマー世代)の人々だった。その代表的存在が、彼自身がヒッピーであり、スチュアート・ブランドが創刊した『ホール・アース・カタログ』を愛読する傍ら、21歳でAppleを創業し、MacやiPod、iPhone、iPadなどの革新的なデバイスを次々と世に送り出した1955年生まれのスティーブ・ジョブズだろう。あるいは、『サマーウォーズ』や『竜そば』のメタバースのルーツになる「サイバースペース」という概念を普及させたサイバーパンクSFの傑作『ニューロマンサー』(1984年)の著者、1948年生まれのSF作家ウィリアム・ギブスンもヒッピーだった(ちなみに「メタバース」という用語もニール・スティーヴンスンのポストサイバーパンクSF『スノウ・クラッシュ』が元ネタ)。

  映像分野で言えば、ルーカスフィルムや「ILM」を設立、代表作のスペースオペラ『スター・ウォーズ』シリーズ(1977年~)でアメリカ映画(「ハリウッド映画」、ではないところがポイント)のデジタル技術を飛躍的に発展させた1944年生まれのジョージ・ルーカスが当てはまる。

 すでにいろいろ論じられているように、アメリカのいわゆる「シリコンバレー精神」(梅田望夫)とは、近代由来の既成権力や保守的な価値観からの脱却を標榜し、新しいライフスタイルを模索したヒッピー・ムーブメントに象徴される対抗文化(カウンター・カルチャー)と絶えず密接に関わってきた。

 そこでは、彼らが「スクウェア」と呼んだ旧来の民衆を抑圧する権威や価値観と、それに束縛されないリバタリアン的な「個人」が対比され、後者の可能性が積極的に肯定される。あるいは、古い近代社会が重視してきた合理主義的な「理性」や「知性」に対して、LSDなどのドラッグやフリーセックス、スローフードなどの「感情」や「自然」が盛んに称揚される。

 その時に、ヒッピーたちが注目したのが、新たな情報技術だった。彼らはそれを対抗文化の精神を技術的に実装(現実化)するものと捉えたのだ。例えば、「いま・ここ」のユーザの意識を、情報ネットワークを通じてグローバル(いま・ここではないどこか)に拡大・接続するサイバースペース(情報空間)は、当時、ドラッグによる「変性意識」(意識の拡大)になぞらえられた。抽象的な理性ではなく、子どもでも使える感覚的・感情的な要素の重視ということでは、後にジョブズが採用することになるアラン・ケイの開発したグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)、さらにはずっと先のこと、スマホのタッチパネルの開発にも結実している。以上のような1960年代の対抗文化をめぐるアメリカの精神史的文脈を踏まえていないと、ジョブズが、なぜ企業や大学といった機関(権力)だけが使える「メインフレーム」を否定して、個人が自由に使えるパーソナル・コンピュータを商用化しようと企図したのか、ルーカスが、なぜ巨大で抑圧的な「銀河帝国」に抵抗して、情念的な「フォース」を操る主人公も含む「反乱軍」の戦いを描こうとしたのか、本当の意味では理解できないだろう(ルーカスが物語の着想源としたジョゼフ・キャンベルもヒッピーの愛読書である)。

 しかしながら、日本のIT文化では、アメリカからこうした技術が輸入されてきた時に、当然のことながら、外形的なテクノロジーだけが取り入れられて、その背景にある以上のような文化史的文脈はすっぽり抜け落ちてしまったのだった。ちなみにその点では、補助線として入れると興味深いのが、1951年生まれ、まさにヒッピー世代と重なる団塊の世代に属する押井守だろう。押井もまた、代表作の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)や『イノセンス』(2004年)に象徴されるように、一貫して情報技術に高い関心を持つクリエイターである。

日本型情報社会における細田世代の意味

 結論をいうと、アメリカでのヒッピー世代のような意味を情報技術に対して担ったのが、日本では、おそらく細田の属する主に1960年代半ば生まれのバブル世代(からそのすぐ下の新海を含む団塊ジュニア世代まで)だったのではないだろうか。

 この世代の人々は、少年時代に『スター・ウォーズ』に触れ、ハイティーンでギブスンらのサイバーパンクブームに出会い、20代でパソコン通信やインターネット(Windows 95)のインパクトを経験するという、人格形成期の節目でデジタル文化や情報技術の重要な革新に居合わせた。1967年生まれの細田とほぼ同世代である、1965年生まれの三木谷浩史にせよ、あるいはその少し下の、新海誠と年齢は近いが、1972年生まれの堀江貴文にせよ、1973年生まれの藤田晋にせよ、2000年代以降のドットコム・バブルを担うカリスマ起業家たちは、実は、アメリカから20年遅れで、ルーカスやジョブズの位置を担っていた人物だったと理解したほうがよい(堀江の反体制的・反権力的なスタンスはヒッピーと似ていた)。言論の場で言えば、堀江や藤田と同世代で、90年代からサイバースペース論(『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』河出書房新社)やアーキテクチャ論(『情報自由論』中央公論新社)などの情報社会論で積極的に発言し、『一般意志2.0』(講談社文庫)などの著作もある哲学者の東浩紀の存在も含まれるだろう。

 そして、その東の存在がこれまた象徴的なように、いわゆるこの「日本型IT=対抗文化世代」の文化的背景には、彼らの10~20代である1980年代に台頭してきたアニメやゲームなどのオタク文化の影響が大きいと考えられる。

 例えば、その具体的な事例となるのが、2000年代のオタク文化の一部で流行した「セカイ系」だ。かつてライターの飯田一史が論じたように(「セカイ系とシリコンバレー精神」、限界小説研究会編『社会は存在しない』南雲堂所収)、セカイ系的想像力の特徴は、実はヒッピー文化と結びついたシリコンバレー精神と共通している。しかも、当時、セカイ系を積極的に評価した右の東浩紀をはじめ、セカイ系の代表作といわれた3作品(『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』『ほしのこえ』)を手掛けた高橋しん、秋山瑞人、新海誠もまた、細田と同じバブル世代から団塊ジュニアにかけての生まれだった。そう考えると、直接的に情報技術を描いてはいなくとも、「セカイ系」とも関連して語られることの多かったタイムリープものの『時をかける少女』(2006年)も近い文脈で論じることができるだろう。

 もしくは、音楽ジャーナリストの柴那典がかつて『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)で提示した見取り図も思い起こされる。柴は、2007年における初音ミクの登場を、1967年のヒッピー文化における「ファースト・サマー・オブ・ラブ」、1980年代後半のレイヴ文化における「セカンド・サマー・オブ・ラブ」に続く、「サード・サマー・オブ・ラブ」と見立てている。この柴の図式も、60年代のヒッピー文化と関わる情報技術革命の影響を受けて、80年代に青春を送り、2000年代に本格的な活躍を始めた細田の半生とぴったり重なるものである(細田の『時かけ』と初音ミクは1年違いだ)。また、『竜そば』の歌姫ベルは、初音ミクのイメージも少し入っている。

 あるいは、こうした傾向は日本に限らず、東アジアである程度普遍的なものなのかもしれない。例えば、細田ら日本のバブル世代とほぼ同じ韓国のいわゆる「386世代」も、韓国社会のIT化を推し進めた中心的世代と評されることがあるように、似たような特徴を持っている。

 もちろん、これは粗い見取り図でツッコミどころはいろいろある。だが、仮に以上のように文脈を立てると、戦後日本のアニメ史において、なぜ細田守がAIを含めた情報技術を繰り返し自作の中心的な主題にするのかがなんとなく見えてくるように思われる。

 最後にまとめれば、細田の情報技術や情報社会の描き方は、テクノロジー(ロボットや兵器)に対する屈折した思いも濃密に表現した先行世代の手塚や宮﨑らと比較すると、総じてポジティヴで楽観的である。それは繰り返すように、やはり対抗文化と結びついたアメリカのシリコンバレー文化の日本版という世代的要因が大きいのだろう。しかし、とはいっても、例えば彼を世代的に挟む形になる、押井守や新海誠のように、ヒッピーのような反体制的、あるいは非合法的な価値観やイデオロギーに対するシンパシーは、細田には一切存在しない。高校全共闘だった押井とは対極的に、細田はあくまでも公共性に資するものとして情報技術や情報社会を評価し、描き出そうとしているところが特徴だろう。

 おそらく今後、細田もAIを本格的に取り上げた作品を作りそうだが、以上に示した見取り図も頭に入れながら鑑賞すると面白いかもしれない。

参照

※「竜とそばかすの姫・細田守 三たびネット社会描く理由 細田守監督インタビュー(上)」(NIKKEI STYLE)

(文=渡邉大輔)

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