羽柴秀吉(はしば ひでよし)による織田家乗っ取りの野望を阻止するため、織田信雄(おだ のぶかつ)と共に立ち上がった「我らが神の君」徳川家康(とくがわ いえやす)。
家康は小牧山城に、秀吉は楽田城に……両軍のにらみ合いが続く中、羽柴方の池田恒興(いけだ つねおき。勝入)が中入りを献策。別動隊が家康の本拠地である岡崎城を攻めてみせることで家康をおびき出し、その背後を秀吉の本隊が衝いて挟撃しようと言う作戦です。
果たして中入りが始動したものの、なかなか家康は動きません。まさかこのまま、岡崎を見捨ててしまうのでしょうか?
秀吉がいぶかしがっていると、実は家康が密かに用意した(守りを固める堀に見せかけた)抜け道から、中入りの軍勢を奇襲します。
不意を衝かれた池田恒興は婿の森長可(もり ながよし)ともども討死。いわゆる小牧長久手の合戦は家康が勝利を収めたのでした。
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……第32回放送「小牧長久手の激闘」のあらすじをごくざっくりまとめると、こんな感じになります。
ところどころ徳川四天王(榊原康政・本多忠勝・井伊直政・酒井忠次)が紹介され、最後は海老すくいならぬ天下すくい踊りで盛り上がりました。
しかし石川数正(いしかわ かずまさ)は目先の勝利を喜べず、家康は秀吉に勝てないなどと、不吉なことを口走るのでした……。
それでは今週も、気になるトピックを振り返っていきましょう!
「その手は既にお見通し」中入りを読み、敵の裏をかいた家康
……卯月六日池田勝入。森長一。堀久太郎秀政に三好孫七郎秀次を総手の大将とし。二万餘騎の兵をわけて楽田より東の山にそひ。小牧の御陣を右にして篠木柏井にかゝりたり。こは御勢多半は小牧にありと志りて。みかたのうしろにまはり三河の空虚をうたんとのはからひなり……
※『東照宮御実紀』巻三 天正十一年-同十二年「小牧山役(長湫戦、大戦之四)」
天正12年(1584年)4月6日、池田恒興は森長一(長可)、堀秀政(ほり ひでまさ)が出撃。総大将は秀吉の甥・三好秀次(みよし ひでつぐ。羽柴秀次)、総勢2万の大軍を率いています。