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西鉄・中西太、左手首故障に苦しんだ1年/『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1960年編

週刊ベースボールONLINE

 5月31日、『よみがえる1958年-69年のプロ野球』第2弾、1960年編が発売された。その中の記事を時々掲載します。


『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1960年編表紙

強烈な痛み


 今回は、5月11日に亡くなられた元西鉄ライオンズ・中西太さんの1960年を追っていく。

 入団から1958年まで7年連続規定打席に達し、本塁打王5回、打点王3回、首位打者2回、53年にはトリプル3達成と無双の打撃を誇った中西だが、59年は負傷で59試合の出場にとどまった。

 そのオフ、義父でもある三原脩監督が大洋に去り、川崎徳次監督が就任。独自色を出すためか、黄金時代の象徴であるNとLを組み合わせた帽子マークをLのみとした。

 新主将となった中西はキャンプから前年の巻き返しと張り切り、紅白戦では快打を見せていたが、2月下旬から猛烈な左手首の痛みを訴える。

 病院に行くが、原因も分からない。そのあとオープン戦の遠征にも試合には出られないが、主将の責任感から同行。その土地土地で勧められた治療をするも、まったく回復しなかった。

 結局、開幕には間に合わず、西鉄は稲尾和久が肩痛で出遅れたこともあって4月は最下位スタート。中西はユニフォームを着てベンチ入りはしていたが、時折、トスバッティングや守備練習をする程度。「いつ出場できるか見当もつかん。悪くすれば今年いっぱいは無理かもしれん」と言っていた。

 中西のいない打線を支えたのは、自らも腰痛を抱えていた豊田泰光だ。中西にとって1学年後輩となる。

 気性の荒い選手でもあり、不甲斐なさから、「みんなだらしなさ過ぎる。もっとファイトを燃やさんといかん」 と事あるごとにほかの選手に言い放ち、川崎監督と衝突することもあった。

 中西は豊田の檄を自身に向けたもののように感じていたかもしれないし、実際、豊田の中に、その思いはあっただろう。

手首は腱鞘炎ではなかった


 5月17日の近鉄戦(日生)でシーズン初出場も代打で見逃し三振。そのあと、とても試合に出られる状態じゃないと、入院して治療に専念することにした。

 当時は腱鞘炎と言われ、痛み止めの注射を打ちつつ、1日に何度となく、温泉治療をした。川崎監督には主将辞退を申し出たが、「まずは戻ることを考えてくれ」と言われたという。

 明らかな外傷ではないこともあり、当時、「中西は本当はプレーできるのではないか、三原監督が指揮する大洋に移籍するため、今年は無理をしないつもりではないか」という声が、チーム内、さらにはファンからもあった。

 中西はそれを知り、「この俺が野球をやれる状態でありながら野球をやらずにじっとしておれる男かどうか。ファンが一番知っているはずなのに」と唇をかんだ。野球をやめようかと夫人に愚痴ったこともあったという。

 6月28日に退院。「試合に出られる体になったから退院したわけではない」と言ったが、打撃練習も再開し、快方には向かっていたようだ。

 7月20日に久々にベンチ入りし、23日の近鉄戦(平和台)でシーズン2度目の出場。代打で空振り三振には終わったが、「長いこと出ていなかったんで、新人並みに緊張したよ」と笑顔を見せた。

 あらためて主将返上を申し出、受け入れられた翌日、8月3日の阪急戦(平和台)で5打席目にして初ヒット。その後も代打中心ながら、まずまずの結果を残し、32試合54打席で打率.362をマークしている。

 中西の左手首はその後も完治せず、引退までの10年間、規定打席到達はない。

 故障について引退後に尋ねると、「本当は骨が欠けていたらしい。温泉にいくら入っても治らんはずや」と笑っていた。
 
   

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