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新日本プロレスVS全日本プロレス<仁義なき50年闘争史>「ブロディ獲得だけで終わらない新日本の反撃」

アサ芸プラス

 1985年3月、ブルーザー・ブロディの引き抜きに成功した新日本プロレスの坂口征二副社長は「第2、第3の反撃材料もすでに用意してある」と、全日本プロレス&ジャパン・プロレス連合軍への反撃を口にしたが、ブロディを獲得する以前から他の作戦も水面下で進行していた。

 まず表沙汰になったのが、ジャイアント馬場の付き人だった越中詩郎の引き抜きだ。越中は前年3月6日に三沢光晴とともにメキシコ修行に旅立ったが、三沢はタイガーマスクになるために7月22日に帰国。越中はひとりメキシコに残される形になってしまった。

 越中は年明け85年1月31日付で全日本の事務所に退職願を送付。これは全日本内でシークレットにされていたが、ブロディが新日本に出現した直後の4月2日付の東京スポーツに越中の「新日本のリングでNWA世界ジュニア・ヘビー級王者のザ・コブラに挑戦したい」という発言が退職願とともに掲載されたから騒動になった。

 メキシコで孤独な時を過ごしていた越中に声をかけたのは、カナダ・カルガリー在住の新日本の外国人ブッカーのひとりである大剛鉄之助。2月13日にハワイのNBCアリーナで開催された「ポリネシアン・レスリング」のビッグマッチにアントニオ猪木をはじめとする新日本のトップ選手が大挙参加したが、この時に坂口が試合とは関係なしに越中をハワイに招待した。

「ハワイに呼んで、話を聞いて。ロスにも呼んだのかな。メキシコではろくなものを食ってなかったみたいで、すごく食ってたな。うどんとかを食わせてよ。安いもんだよな(笑)。それで新日本でやりたいということだったから」と坂口。

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 越中は「僕は三沢が帰国してひとりになった時に馬場さんにアメリカに送ってもらえるように話をしたんですけど、それっきりで。それで坂口さんに呼ばれてメキシコからロサンゼルスに2回、ハワイに1回行ってるんです。ロスで食べさせてもらったタヌキそばがうまかったなあ」と笑う。

 坂口に「馬場さんに挨拶してこい」と言われた越中は、7月10日に密かに帰国すると12日に全日本の巡業先の青森県八戸市の馬場の宿泊ホテルを訪れた。

 馬場は「今までのことはいいから、今日、リングに上がってジュニアのチャンピオン(NWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王者)の小林邦昭に挑戦状を出せ。あとは新日本のことは俺が全部やっておくから心配するな」と慰留。自分の付き人だった人間が新日本に行くことは馬場のプライドが許さなかった。

 それでも越中は「新日本で頑張りたいです」の一点張りで、同席した天龍源一郎が「馬場さん、これだけ言ってるんだから、いいじゃないですか」と助け舟を出して、結論が出ないまま話し合いは終わった。

 帰り際の越中の背広のポケットに「メキシコで苦労して、小遣いもねぇんだろ?」と、天龍が1万円札の束を無造作に突っ込み、あとで額を確認した越中が驚き、感激したというのは有名なエピソードだ。

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