是枝裕和監督とカンヌ国際映画祭のつながりは深い。2018年に『万引き家族』で最高賞のパルムドール、2013年の『そして父になる』では審査員賞、2004年の『誰も知らない』で柳楽優弥、2022年の『ベイビー・ブローカー』でソン・ガンホが男優賞を受賞している。そして、現地時間5月27日に閉幕した第76回カンヌ国際映画祭では、『怪物』(6月2日公開)の脚本を執筆した坂元裕二が脚本賞を受賞した。また、コンペティション部門受賞発表の前に、独立賞のひとつで、LGBTQ+やクィアの題材を扱う映画に与えられる賞のクィア・パルム賞受賞の吉報が届いている。世界中から映画に携わる人々が集まるカンヌ国際映画祭において、『怪物』がどのようにお披露目され、作り手たちがどのように向き合い、そして作品が世界へ向けて羽ばたいて行く道筋を検証してみたい。
■『怪物』のはじまり「読んですぐに参加の決断をしました」(是枝監督)
『怪物』では、地方都市の小学校で起きた子どものケンカをめぐり、シングルマザー(安藤サクラ)、若い教師(永山瑛太)、そして子どもたち(黒川想矢、柊木陽太)の視点が徐々に明かされていく。軸となるエピソードの輪郭をなぞりながら、街で起きるいくつかの事件やメディア、教育機関、それぞれの家庭などの状況を取り込み、やがて観客に問いを投げかける。あなたが見ている怪物の存在とは…?
公式上映の翌日に行われた記者会見では、会見場を埋めた世界各国のジャーナリストから、積極的に質問が寄せられていた。企画当初は違うタイトルだったという『怪物』は、2018年に東宝のプロデューサーと坂元裕二によって三部構成のプロットが上がり、是枝監督に参加の打診があったそうだ。是枝監督は「非常に見事な脚本だと思いました。実際にそこに存在しない怪物を、人は見てしまう。そういうプロセスを、観客を巻き込みながら進めていくようなストーリーテリングが本当におもしろく、読んですぐに参加の決断をしました」と認める。
同じく記者会見に列席した坂元は、車の運転中に前に停まったトラックに視界を阻まれ、その先で起きていることが見えずにとってしまった行動をもとに、「私たちには、生きているうえで見えていないものがある。それを理解するにはどうすればいいのか、そんなことを物語にしたいと常々思っていました」と語っている。是枝監督は坂元脚本との親和性を、「同時代に生きながら、時代と共に彼が注視しているトピックと、僕の中で引っかかっていて映画の題材にしていたものが、 時期は多少ずれますが、すごくリンクしていました。同じ時代の空気を吸っている方だ、という認識がありました」とする。
■是枝裕和監督とカンヌ国際映画祭の縁「初めて来た時、視界が広がる感覚があった」(是枝監督)
是枝監督がデビュー作『幻の光』をヴェネチア国際映画祭で披露したのが1995年。カンヌ国際映画祭とは、最新作『怪物』で9度目、コンペティション部門には7作品が選出という長い付き合いになる。なぜ国際映画祭なのか、なぜカンヌなのか。その問いに、「最初にカンヌを訪れてから、現在までずっと変わらずに感じていることがある」と言う。
「僕はテレビ(ディレクター)の出身で、日本の映画界とはつながりがありませんでした。誰かの助監督についたこともなく、まったくの部外者として映画を作り始めて、非常に孤独でした。初めてカンヌに来た時、とても視界が広がる感覚があったんです。自分が作っている映画が、『こんなにも多くの人たちとつながっているんだ、多くの映画の作り手とつながっているんだ』と実感し、励まされました。だから、カンヌ(や映画祭)に来ることをスタッフやキャストにも勧めています。自分がやっている仕事が世界とつながっていると実感できる場所だからです。それは監督だけじゃなくて、役者もジャーナリストも、みんなそうではないでしょうか。その喜びを、ここに初めて来た時から変わらず実感しています」。
是枝監督が上映に参加したり、カンヌの街を歩いているとひっきりなしに声をかけられる。「ファンです」と言い記念撮影を求める若いフランス人カップルもいれば、韓国のジャーナリストが、いま観ていた映画の感想を問うこともある。是枝監督の姿を見つけると駆け寄り、映画の感想を伝えようとする人もいる。お互いに第一言語ではない言葉で、懸命に想いを伝え合おうとする瞬間が多く訪れる。こうした切実な対話は、是枝監督を“孤独な映画監督”から、言語や文化を超え、本来は見えないつながりを映画に写しとる映画監督へと導いていった。『怪物』で描かれていることの一つは、パンデミックを経て人々が陥っているコミュニケーション不全を、是枝監督と坂元がそれぞれ突き詰めたものだそうだ。
是枝監督は言う。「この映画は地方都市の小さな小学校で起きた小さな事件を描いていますが、ここで描かれている人間と人間の無理解による断絶や、視野が限定されて相手の全体像が見えずに怪物だと思ってしまう現象は、おそらく日本特有ではなく、世界中で起きているんだろうと思います」。一方、坂元は記者会見でこう述べている。「私は脚本家ですが、常に言葉というものに疑いを持ちながら物語を紡いでいます。この物語には冒頭から、常に人と人が対話をしながら、そこに誤解が生まれ、争いが生まれ、文化が生まれています。しかし、同時に、言葉には愛情を伝える力がある。その矛盾した存在と、私たちはどのように付き合っていけばいいのか。その一つの表れとして、(とあるシーンについて)彼らは言葉ではつながれなかったなにかを感じたのではないか、そんな想いを描きたかったんです」。
■世界に評価された、「たった1人の孤独な人」のために書かれた『怪物』脚本
授賞式の壇上。審査員団の1人である俳優のポール・ダノが脚本賞の発表を行い、「脚本賞は、坂元裕二の『モンスター』(英題)です」と言うと、会場にいる是枝監督と安藤サクラが抱き合った。ステージに上がった是枝監督はトロフィーと賞状を受け取り、「すでに帰国した坂元さんに伝えます」と言った。そして、「いただいた脚本の1ページ目に、それだけは僕の言葉ですが、『世界は、生まれ変われるか』という1行を書きました。常に、自分にそのことを問いながら、この作品に関わりました」とスピーチを行った。受賞の瞬間は日本時間の深夜であったが、坂元からすぐにメールが届いたという。そこには、「この脚本はたった1人の孤独な人のために書きました。それが評価されて感無量です」、と書かれていた。
是枝裕和と坂元裕二が描こうとした“見えないもの”は、観客ひとりひとりの心の中にある。それを感じ取り、受け止め、「この映画は命を救うことになることでしょう」と評したのは、コンペティションとは別の独立賞であるクィア・パルム賞の審査員と、彼らを率いた審査員長で映画監督のジョン・キャメロン・ミッチェルだった。『怪物』の選定理由を、こう説明する。「物語の中心にいるのは、ほかの子どもたちと同じように振る舞うことができず、またそうしようともしない、とても繊細で、驚くほど強い2人の少年です。世間の期待に適合できない2人の少年が織りなす、この美しく構成された物語は、クィアの人々、馴染むことができない人々、あるいは世界に拒まれているすべての人々に力強い慰めを与え、そしてこの映画は命を救うことになるでしょう。登場人物のあらゆる面を、繊細な詩、深い思いやり、そして見事な技術で表現した是枝裕和監督の『怪物』に、私たち審査員は満場一致でクィア・パルム賞を授与します」。
ミッチェルが世界に知られるきっかけとなった『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(01)の主人公や、そのほか多くの“世間の期待に適合できない存在”の背中にそっと手を添えるような今作に、審査員たちはほのかな希望を見出したのではないだろうか。そして、言葉を扱うからこそ、疑うことを辞さない坂元裕二の脚本が、言葉で現すことのできないものを脚本にし、是枝裕和がそれを映像に映しだした。2人のクリエイターの懸命な挑戦の結実が、国際映画祭での評価だと考えられる。長らく続く分断社会から、世界は生まれ変われるかもしれない。
カンヌの地でいち早く映画を観た人々の想いを載せて、『怪物』は世界中の映画祭を周り、各国の配給会社によって劇場公開される。そうやって映画は作り手のもとから離れ、飛び立っていく。世界のどこかにいる、“たった1人”に向かって。
取材・文/平井伊都子
是枝裕和、坂元裕二がカンヌで語った『怪物』に秘めた想い。「言葉という矛盾した存在と、どのように付き合っていけばいいのか」
2023年5月31日