幼いころ、親やまわりの大人から、「嘘をついたらダメ」「正直に生きなさい」と言われすぎたせいだろうか。“嘘”には“嫌なもの”というイメージが付きまとう。でも、年齢を重ねていくうちに気が付くのだ。この世界には、ついていい嘘と、ついてはいけない嘘が存在することに。
参考:『コタローは1人暮らし』が肯定するさまざまな家族観 横山裕が川原瑛都に与える“無償の愛”
『帰ってきたぞよ!コタローは1人暮らし』(テレビ朝日系)第7話。狩野(横山裕)が、コタロー(川原瑛都)についた嘘と向き合う場面が描かれた。
もちろん、狩野がついたのは、ついていい嘘だ。というか、つかざるを得なかった嘘だと思う。ただでさえ、コタローは小さな身体で寂しさと闘っていた。そんな男の子に、「お母さんは死んじゃったんだよ」と伝えて、希望を奪うことが正解だとは思えない。だが、叶わない希望を持たせ続けることが、正解だとも言い切れないのが苦しい。
もちろん、私が狩野の立場でも、彼と同じ行動をしていた。コタローの苦しみをちょっとでも先延ばしにするために、「いつか会えるよ」と伝えていたと思う。大好きで、大切な相手だから、嘘をつきたくない……という気持ちを隠して、精一杯の笑顔を作りながら。
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でも、コタローの立場だったら、どうだろう。いつか知らなければいけないことなら、もっとはやめに知っておきたかった……と思ってしまうかもしれない。最初から絶望を与えられるよりも、希望を与え続けられたあとの絶望の方が苦しい気がしてしまう。
だが、こうも感じる。「もしかしたら狩野はいま、コタローの苦しみを肩代わりしてくれているのではないか?」と。
正直、コタローの母が亡くなったことは、狩野が背負う必要がないことだ。本人に伝える瞬間は苦しいかもしれないけれど、その一瞬さえ我慢していたら、ずっと罪悪感にさいなまれることはなかった。毎晩のように、悪夢にうなされるなんてことも。大切で大好きなコタローから、「わらわに期待をさせ続けてきたのか」と睨みつけられるなんて、たとえ夢だったとしてもしんどい。
それなのに、狩野は嘘をついてまでコタローの笑顔を守ろうとした。それはやっぱり、“親心”からくるものではないだろうか。子どもが苦しむくらいなら、自分が苦しんだ方がいい。子どもには、親が苦しんでいる姿を見せたくない。狩野にも、そんな“親心”が芽生えているのだと思う。
優しい嘘は、つかれた方よりもついた方を苦しめる。大切で、大好きで、守りたいと思っている相手に、嘘をつきたい人なんていない。みんな、なるべくいちばん正直な自分を見せたいと思うものではないだろうか。それでも、相手が少しでも苦しまないように……と嘘をつかなければならない瞬間がある。
もしもいつか、狩野が嘘を打ち明ける日が来たら、コタローは「ありがとうぞ」と感謝を伝える気がする。もちろん、最初は嘘をつかれた事実に戸惑うかもしれない。だけど、狩野の愛情を一身に受けてきたコタローは、優しい嘘の温かさと、その裏にある苦しみをきっと察することができるから。