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〈深作欣二監督 没後20年企画第3回〉伝説のアクション女優・志穂美悦子が語る「 深作欣二と駆け抜けたあの時代」

キネマ旬報WEB

徹底した娯楽とバイオレンスの巨匠として20世紀後半の日本映画界を怒濤のように駆け抜けた深作欣二。没後20年を迎える今年、改めてその魅力に光を当てるシリーズ企画の第3弾。今回ご登場いただくのは「柳生一族の陰謀」(78)を皮切りに、70~80年代の深作映画で華やかに躍動した“伝説のアクション女優”志穂美悦子さん。長く芸能活動からは離れていても、現役当時と変わらぬエネルギッシュさで、当時の思い出を語っていただいた。

深作欣二との出会い

©東映・東北新社 「宇宙からのメッセージ」 ◎東映チャンネルにて6月放送

志穂美: 亡くなられて、もう20年にもなりますか。深作監督、たしかにそう言ってくださいました。いま思い出しても、涙が溢れそうになります。

──2023年4月、志穂美悦子は遠い目となった。1981年に刊行された山根貞男責任編集『女優 志穂美悦子』(鈴木一誌造本・写真構成による志穂美への愛に溢れた本だ)に深作欣二が寄稿している。その文章には、「いつまでもカラテ女優でもあるまい」と新聞記者に謗(そし)られ泣いて悔しがった志穂美に深作がこう言ったと記されている。

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「肉体こそが俳優のことばなのだ。その肉体を君ほどみごとに駆使出来る女優は日本にいない。それを君は誇っていい。見ていたまえ、今にきっと君の価値が花開く時が来るから」
 
そののち、深作は「里見八犬伝」(83)、「上海バンスキング」(84)で志穂美の新境地を拓(ひら)き、「里見八犬伝」の桜吹雪の中での志穂美の殺陣(たて)から、絢爛にして過剰な1980年代の深作映画が幕を開ける──。

志穂美: 深作監督には、本当にお世話になりました。映画人として大きくしていただいたと思っています。

深作監督と最初にお目にかかったのは東映京都撮影所でした。「新仁義なき戦い 組長最後の日」(76)の撮影を一方的にですが、覗いたんです。第1ステージ前の広場で、乱闘シーンを撮影するために煌々(こうこう)とライトが灯っていました。そこに人一倍大声を出している人がいる。台詞を言いながら走っているから、俳優さんだと思っていたんです。「あれが深作欣二監督だよ」と殺陣師(たてし)の菅原俊夫さんが教えてくれました。かっこいいんですよね。でも、話すと水戸弁で親しみやすい方でした。私は子どもの頃からアクションが好きで、弟と物置の上から飛び降りて写真を撮ったりしていたんです。運動神経はあるほうでしたけど、だからといって殺陣ができるわけではない。ただただ、アクションをやりたい、と妄想していたんです。最初は、東京の早稲田大学教育学部教育学科へ行こうと決めていました。そこから文学座などの劇団に入って芝居をやっていれば、好きな殺陣をやらせてくれるんじゃないかと思っていた。絶対やりたいと思うけれど、何もできない。そんなふうに悶々とする東京に出てくるまでの岡山での二年間が、人生で一番苦しかったかもしれないです。その頃、週刊誌を読んで知ったのが千葉真一さん主宰のジャパンアクションクラブ(JAC)でした。TVの『キイハンター』で千葉さんを見て電流が走るほど感動していましたから。絶対にここへ行きたい、と思いました。

そして、映画の世界に入り、18歳で「女必殺拳」(74、山口和彦監督)に主演しました。映画の仕事はとにかく楽しかったんです。演じるって楽しいですし、監督さんたちもよくしてくださいました。そうしたなかで、深作監督に出会うことができ、公私ともにお世話になりました。

70~80年代の深作監督と並走

©東映 「柳生一族の陰謀」 ◎東映チャンネルにて6月放送 (右は千葉真一) 

──1978年、「仁義なき戦い」(73)から始まった実録やくざ映画路線に終止符を打ち、深作欣二は時代劇とSFに挑む。「柳生一族の陰謀」(78)で志穂美と初仕事をした深作は、「宇宙からのメッセージ」(78)で志穂美を宇宙に連れ出したばかりか、得意のアクションを封じ、芝居で勝負させた。

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