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「イケメン」といわれる歴史上の人物5選

日刊ホントの話

テレビやSNSでは、毎日のように「イケメン」といわれた美男子たちが世のレディたちを魅了し、世間をにぎわせています。それは現代特有のものではなく、これまでの歴史上でも同じでした。


 今回は、歴史に残る「イケメン」たちを5名、ご紹介します。

●土方歳三(武士、新選組副長)

 日本史史上、最も名高いイケメンといえば、新選組の副長・土方歳三でしょう。

 新選組とは、江戸末期に活躍した幕府の警備隊です。幕府の政治に不満を持つ者が多かった当時、京都にはびこる不穏分子を取り締まるために結成されました。トップの局長が近藤勇、そして副長がこの土方歳三です。

 歳三の古写真を見ると、端正な顔立ち、長い髪と耳を出したヘアスタイル、涼やかな目がグッとくる、抜群の色男ぶりです。スッと背筋を伸ばした軍服姿も、まるでミュージカル俳優と見紛うばかり。その知名度も相まって、日本史史上イチのイケメンと言っても過言ではないでしょう。

 現代にも女性ファンは多くいますが、当時から歳三はモテモテ。しかもそれを本人も自覚しており、芸者や舞妓からもらった恋文を郷里に送りつけて自慢していた……なんてエピソードが残っています。ほかにも、14歳からすでに年上の女性と関係があった、彼が部屋に入ってくると清々しい風が吹いた……など、色男エピソードに事欠きません。

 そんな歳三ですが、新選組副長としての役目に対しては強い信念と覚悟がありました。自身にも身内にも厳しく、冷静かつ苛烈な仕事ぶりから「鬼の副長」と恐れられたほどです。「武士よりも武士らしく」を信条に、最期は明治政府軍との対決「五稜郭の戦い」で討死。幕府の臣下として己を貫きました。

 もともと淡麗な容姿に加え、クールだけど熱く武士として志を貫き、悲劇的な最期を迎えるという「顔も性格も人生もイケメン」なところが、世の女子の共感と涙を誘い、今も昔も人気を不動のものとしています。

●渋沢平九郎(渋沢栄一の従兄弟、旗本)

 土方歳三と同時代を生きた“イケメンサムライ”が、 渋沢平九郎です。日本資本主義の父といわれ、このたび新1万円札の顔となる渋沢栄一の従兄弟にあたります。

 栄一と同じ深谷市の農家の出身で、のちに栄一の養子となり、栄一の後を継ぐことになっていました。しかし幕臣として働く栄一の影響を受けたことで、幕末の戦乱に巻きこまれます。

 倒幕運動が激しくなっていくことに心を痛めた平九郎は、幕府軍として戦闘に参加。しかし新政府軍との戦いに敗れ、逃亡中に敵軍の兵と鉢合わせてしまい、進退窮まって自ら命を絶ちました。渋沢栄一を描いたNHK大河ドラマ『青天を衝け』では、平九郎が声高らかに名乗りを上げ、敵の銃弾を一斉に受けたあと自刃するという壮絶な最期が描かれましたので、印象に残っている人もいらっしゃるのではないでしょうか。

 そんな波瀾万丈な人生を歩んだ平九郎。幼少期から文武両道に優れていたうえ、長身で色白、端正な顔立ちで腕力もあったという記述が残っています。加えて栄一の血縁(そしてお金持ちのおぼっちゃま)という、まさしくハイスペック男子だったのです。残っている写真を見ても、それも納得なイケメンぶり。刀を地に突き立てて扇子を広げ、しっかりと前を見すえる立ち姿は、堂々たるものです。

 20歳という若さで散った彼の雄姿を記憶にとどめておこうと、平九郎が自刃した地には石碑が建てられています。

●池田長発(備中国井原領主、筑後守)

 池田長発(いけだながおき)は備中国井原(岡山県井原市)の領主、池田家10代目の当主だった人物です。日本中が外国の脅威におびえていた幕末期に、外国奉行として活躍しました。

 古写真の中の長発は眼光鋭く、挑発的な目線で見下ろす姿がなんとも男前。江戸時代の人物とは思えないほど、現代的な目鼻立ちと小顔が印象的です。どこか色気も感じられますよね。

 領主といえども、そこまで大きな旗本ではなかった長発でしたが、生まれてこのかた秀才と目されるほど頭脳明晰。そして真面目で努力家でした。その才を活かして、幕府の要職である外国奉行にまで上りつめます。

 フランス軍人の殺傷事件「井土ヶ谷事件」の解決と横浜港の鎖港を交渉するため、長発は第2回遣欧使節団の代表としてヨーロッパに派遣されました。このころの長発はまだ30手前の若者。幕府の代表としてのプレッシャーは相当なものだったでしょう。

「井土ヶ谷事件」については無事解決したものの、横浜港の鎖港については残念ながら成果は上げられませんでした。しかし海外の先進的な技術の数々に驚いた彼は、諸外国の貴重な資料を持ち帰り、帰国後は故郷で後進の育成に努めたそうです。

 ちなみに長発はエジプトにも立ち寄っており、スフィンクスにのぼって記念撮影した写真が残っています。「スフィンクスを最初に見た日本人」としても、その名が知られるようになりました。

●織田信福(歯科医、自由民権運動家)

 ネット上で発掘され「イケメンすぎる」と大きな話題を呼んだのが、織田信福(おだのぶよし)です。知名度は高くありませんが、高知県初の歯科医となり、高知県歯科医師会の会長を務めるなど、日本の歯科医療の歴史に大きな足跡を残しています。若い頃は妻とともに自由民権運動を先導したこともあり、血気盛んな一面もあったようです。

 信福のイケメンぶりが知られるようになったのは、信福のひ孫で現在も存続する織田歯科医院院長が、ホームページに信福の写真を掲載したのがきっかけ。眉と鼻筋が整った、まさに眉目秀麗という言葉がピッタリのイケメンで、口髭とうねるような後れ毛にキュン、となる女子多数。日本人離れしたワイルドな顔立ち、甘いマスクから、ネット上では「明治のオダギリジョー」などと呼ばれています。

 織田歯科医院のホームページには、中高年時代の織田信福の写真も掲載されています。若かりし頃の面差しは感じられるものの貫禄が備わり、髭をたっぷりたくわえた姿はまさに「イケオジ」! 気になる方は是非、確認してみてください。

●有栖川宮威仁親王(有栖川宮家10代目当主)

 有栖川宮(ありすがわのみや)家は江戸時代から続く名家で、威仁(たけひと)親王はその有栖川宮の最後の当主です。将軍家に嫁いだ皇女・和宮は嫁ぐ前に婚約者がいたことで知られますが、その婚約者が有栖川宮熾仁(たるひと)親王で、威仁親王の異母兄に当たります。

 威仁親王は、明治天皇の命により海軍に任じられて以来軍人として成長、さらに16歳から28歳の12年間をイギリスで過ごし、国際感覚を養いました。その才知と経験を買われ、天皇家代表として世界各地を視察することもありました。

 威仁親王の功績のひとつが、来日中だったロシア帝国皇太子・ニコライ2世が日本の警察官に襲撃される「大津事件」の時。こじれればロシアとの関係が悪化して戦争にもなりかねない大事件でしたが、ニコライ2世の接待役を務めていた威仁親王が迅速に対処。直接ニコライ2世に謝罪するよう、明治天皇に頼み込んで実現させたのです。日本側の誠実な対応にロシア側も感服し、事件は穏便に済まされました。

 写真を見ると、軍人のイメージとはかけ離れ、皇族らしい気品あふれる美男子だったことが分かるでしょう。威仁親王は生まれつき病弱で生涯実戦に出ることはなく、後年は肺結核をわずらい、51歳で崩御しました。

 妃との間に男子がなかったために有栖川宮は威仁親王の代で断絶してしまいますが、威仁親王の別荘である「天鏡閣」が福島県猪苗代町に残され、国の重要文化財として今も大切にされています。

 いかがでしたか。今回は写真が残っている人物を中心に解説しましたので、江戸末期~明治期の男性が中心となりました。イケメンとはいえ、時代背景から決して穏やかとは言いがたい人生を送ってきた彼らの生き様が少しでも伝わっていたら幸いです。

<参考サイト>
・和樂WEB
新選組の土方は性格もイケメン!モテモテエピソードと鬼副長の生涯・俳句も紹介
https://intojapanwaraku.com/culture/76831/
幕末動乱期にスフィンクス、ナポレオンと対面!イケメン領主・池田長発って何者!?
https://intojapanwaraku.com/culture/85195/
幕末のイケメン!渋沢平九郎はなぜ20歳で自決したのか?その人生を解説!
https://intojapanwaraku.com/culture/98321/
・織田歯科医院の歴史(織田歯科医院HP)
https://oda-dental-office.jp/introduction/history/

 
   

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