
1973年、春の全国高校野球。優勝候補の名門校が、一回戦で姿を消した――歴史的敗戦によって厳しい批判を浴びる中、打倒「昭和の怪物」を目指して奮闘した高校球児と名将に迫る、渾身のルポルタージュ。※本記事は、畑山公希氏の書籍『怪物退治の夏』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。
【前回の記事を読む】暗黙の了解だった野球部内の厳しい「しごき」…正義感溢れる監督がとった行動とは?
2.名将「斎藤一之」の誕生と銚子商野球部
しかし、この頃、銚子商野球部「外」でも異変が起きていた。
野球部とは関係のない「教師」たちが、野球部への待遇への是非を唱えたのだ。
つまり、「野球部員が授業をまともに受けず寝ているばかり。しかもテストでは赤点ばかり。これでは学生の本分が失われているのと同じではないか。毎日厳しい練習をして帰りが遅いのでは、選手たちは授業をまともに受けられない」という事だ。このような話は、これまでもあったと、OBは話している。
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特にこの時期、先の春センバツで、報徳学園に10点差以上を付けられての1回戦敗退、しかも16︲0。再び教師たちの野球部員への敵対心が、燃え上がったとも言えた。
実際、銚子商が全国で上位常連になってから、中学時代に周辺地域のエース級だった選手が斎藤監督の下で野球がしたいという動きが見られたのもこの頃だった。
だが、野球で優等生でも、学業がそうであるとは言えない。逆に野球しかしなくても、野球で優秀だから周囲の大人たちに認められ、「野球さえしていればいいんだ」という考えを持った選手も多くいたと伝えられている。
学生の本分が学業であるにもかかわらず、学校側、父兄までが、野球で優秀であれば、目をつぶり、周囲の評価に、選手たちも「胡坐をかく」ことを覚え、一般の教師たちにぞんざいな態度まで取った。これが、銚子商の一般教師たちの心に、その後長く続く遺恨の種火として残る結果となった。
しかし、野球部に対し敵対心を持った教師も、その「同僚」「先輩」である、教師「斎藤」本人には言えないのである。それはやはり、地元銚子市だけに留まらず、千葉県の英雄である名将が、彼の正体だからである。時期が時期であれば、全国放送でのテレビでインタビューを受ける英雄が身近にいるのである。この場合、敗戦の責任は、斎藤監督ではなく、「選手にある」と語る市民やファンも多かった。
銚子商は、当時学業でも優秀だった。現在に繋がる話であるが、銚子商に一般入試で入ることは、まさに「大変な」事であった。そのためか、生徒たちの態度も良かったと言われた。