
若き建築家の卵としてヨーロッパの様々な街をめぐり、パリやロンドンに滞在した著者。そこで体験した事がら、出会った人々との交流を、情感あふれる筆致で描いたヨーロッパ青春漂流・滞留記。※本記事は、鈴木喬氏の書籍『遠き時空に谺して』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。
【前回の記事を読む】来て間もない私にも感知できた…イギリスに残る「階級社会の姿」
Ⅰ ヨーロッパ
(四)ロンドンの日々
事務所から遠からぬ所には金融の中心シティがあって、昼休みにその界隈に行ったこともあるが、多くのルテーナンのようなジェントルマンが閥歩していた。
当時の冷戦下にあっては、資本主義陣営の覇権はもはや完全にイギリスからアメリカに移っていて、イギリスは戦争の痛手が癒えぬまま、新たな展望も乏しく、苦しい状況の下にあったはずだ。
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外から見ていると、イギリスは今度の戦争で多くの資産を失ったが、それでも長きの覇権の下で貯め込んだ貯金で食べている、という印象は拭えなかった。そんな状況の中で、ジェントルマン達がどれほどの危機感を抱いているのかは、とても私の知るところではなかった。
それでも私にとって当時のイギリスは、長い歴史の蓄積の中で培った、政治、社会、生活の成熟度において、日本とは比べものにならない大人の風格がある先達であった。
私の給料は週12ポンドであった。その当時は1ポンドが確か1200円だったから月給で62000円程になるわけだ。調べてみると日本での1965年の大学卒初任給が24100円とあるから、2.6倍位ということになる。
日本は復興期にあるとはいえ、円の実力はまだそんなものだったのだ。ロンドンは東京に較べ物価は高かったが、下宿代が食事込みで週5、6ポンドだったはずだから余裕はあった。実習後ドイツなどを回ってパリヘ行く予定だったから、その旅行費用を貯めることができた。
私の週日は大体次のようなものだった。朝7時頃には起きて、他の下宿仲間と朝食をとった。ミセス・ミッチェルの用意してくれる朝食は毎日変わらず典型的なイギリス風で、トーストとバターやジャム、ベーコンエッグと少々の野菜、それにたっぷりのミルクティーだった。これはボリュームもあり美味しかった。
8時頃には家を出て、セント・ジョンから列車でチャリング・クロスに出た。朝の通勤時間帯は勿論東京のような状態ではなかったが、それでも結構ロンドン中心部へ通う人が多かったから、例のコンパートメント型の列車では、人が少なそうなボックスを見つけて乗り込み、「失礼、失礼」と声を掛けながら席を確保しなければならなかった。