大都会・東京も例外ではない。
だが寒い冬を乗り越えて咲き誇ると、桜はあっという間に散ってしまう。
そんな美しく儚い桜のもとで、様々な恋が実ったり、また散ったりもする。
あなたには、桜の季節になると思い出す出会いや別れがありますか?
これは桜の下で繰り広げられる、小さな恋の物語。
▶前回:「もっと大事にすればよかった」6年の恋が終わり、後悔に苛まれる男。その頃、女は…?
前崎玲奈(27)「4年か…。長いこと、一緒にいたね」
「玲奈、春なのになんか厚着だね」
15時すぎの原宿駅。
1ヶ月ぶりに会う交際4年目の彼氏・光輝が、私を見て笑った。
たしかに、今日の街中に、こんなに分厚いコートを着ている人はいない。
「本当は春物のコートを羽織りたかったんだけど、全部クリーニングに出しちゃって…。しかも受け取りは昨日だったのに、忘れちゃったのよ」
「ええ。今日は忘れずに取りに行くんだよ」
「うん」
光輝はいつものようにカラッと笑った。
私は、「そんなことより」と代々木公園の方を見る。
「桜の季節だし、代々木公園に行かない?」
「おお、いいね。俺もそう提案しようと思ってた」
最近のデートはこんなふうにノープランだ。集合してから、場所を決める。
日曜の午後、しかも桜シーズンの原宿駅は人が多い。人混みを掻き分けるようにして代々木公園の入り口にたどり着く。
「お、大道芸だ」
光輝が、広場の中央を見ながら言った。
「ほんとだ」
ジャグリングを披露する若い青年がいて、その周りを10人ほどの観客が囲っている。
「懐かしいな…」
光輝がつぶやいた。
私たちは、観客の輪に加わる。
その光景は、ちょうど4年前にこの場所で光輝と見た景色と、ほとんど変わらない。
なんだか、不思議な気持ちになってしまう。
光輝と出会ったのは23歳のとき。
きっかけは、食事会だった。
慶應の卒業生というつながりで、三田の居酒屋に集まった6人の男女。
そのときに私の向かいに座ったのが、光輝だった。
終始穏やかな笑みを浮かべている「いい人そう」な人──それが、光輝の初対面での印象だった。
私たちは食事会中にもかかわらず、2人きりでたくさん会話をした。多分、お互いに見た目が好みだったのだ。
しかも、大手食品メーカーに勤めている私と、大手電機メーカーに勤めている光輝。大手メーカー同士、話が合った。
テンポのいい会話が続き、光輝にどんどん惹かれていく自分がいた。
食事会のあと、彼は言った。
「玲奈ちゃんと話すの、楽しいな。来週どっかで2人で会わない?」
私は、もちろん即答でOKした。
◆
そして初めてのデートに選んだのが、代々木公園だった。
ちょうどお花見の季節。
混雑の中、原宿駅から歩いて入り口にたどり着くと、ひときわ人だかりができている場所があった。
人だかりの中心で、大道芸を披露している人がいる。
「へえ…なんかやってる。見ていく?」
私たちは自然に足を止め、パフォーマンスに見入る。
10分ほどしてパフォーマンスが終わると、パフォーマーに、まばらで気だるい拍手が送られた。
そのときだ。
ひときわ大きな拍手が聞こえてきて、背筋が伸びる。
― え?
驚いたことに、盛大に手を叩いているのは、光輝だった。
パフォーマーの前に置かれた箱に2人でお金を入れたあと、私は光輝に聞く。
「すっごく楽しそうだったね。大道芸好きなんだ?」
穏やかな雰囲気の光輝に、そんな可愛らしい一面があったなんて。うれしくなって言ったのだが、光輝はいやと言って、顔を伏せた。
「好きってわけじゃないんだ。ただ、1人でも前のめりで見てる客がいたら、あの人、嬉しいだろうから」
変だったかな、と小声で笑った光輝を、私はまったく変だとは思わなかった。
優しい、というのも違う。
ただ、他人がどんな気持ちでいるのか、他人が自分をどう見ているのかがわかる、素敵な人だと感じた。
一言で言うなら、想像力が豊かな人というか。
その瞬間、私は光輝のことが本気で好きになった。
頬を染めながら、公園の奥のほうへと進んでいく光輝についていく。
レジャーシートを敷く場所を探すものの、大きな桜の木の下はすでに人で埋まっていて、場所がない。
「ごめん、この辺でもいい?」
「もちろん」
私たちはまだつぼみの多い、小ぶりの桜の下に腰を下ろした。
「ちょっとこの桜、小さいけど…申し訳ない」
「そんなに謝らないでよ」
桜の大きさなんて、正直なんでもよかった。早く光輝の横に座って、もっと話がしたかった。
作ってきた手作りのお弁当をレジャーシートの上に広げ、缶ビールを飲みながら、初めて手を重ねた。
◆
「ありがとうございました!」
― ああ。終わったのか。
パフォーマーの声と、4年前とよく似たまばらな拍手が耳に届き、我に返る。
今、私の心には、過ぎ去った4年という月日が重くのしかかっていた。
4年前、まさにこの場所で抱いていたあの恋心は…もう今の私には残っていない。
光輝とたくさん話したいという気持ちも、光輝を喜ばせてあげたいという気持ちも、どこかに消えてしまった。
気づけば会う頻度は1ヶ月に1回程度になっていたし、連絡を一切取らずに数日が過ぎても平気になっていた。
デートで行きたい場所を提案することも、ほとんどない。
時間が、私たちのなにかを変えてしまったようだ。結果残ったのは、妙な居心地の良さだけだった。
ふと、光輝のほうを見る。
光輝も、心ここにあらずの様子で、拍手ひとつせずにぼうっと立ち尽くしていた。
やや間があってから、光輝は「あのさ」と言う。
「ん?」
聞き返しながらも、光輝が今考えていることは、わかっていた。
「俺たちさ、楽しかったけど…別れようか」
― ほら、思った通りだ。
「…うん。そうしよっか」
無言で見上げた空には、淡い夕日が差している。
「あれから4年経ったのか…。長いこと、一緒にいたね」
「な。でも、今日ここで4年前を思い出してみて、気づいたわ。俺たちにはもう…」
もう、恋愛感情はない。
光輝があえて飲み込んだ言葉が、私にははっきりと聞こえた。
歩いてきた道を引き返し、原宿駅の駅舎に着く。
私は、光輝と向かい合った。
「ありがとう、今まで。ほんとに」
「俺こそ、ありがとう。
なんか、長く一緒にいすぎて、今さら玲奈と離れるイメージがまだわかないけど」
言いながら、光輝が右手をすっとあげる。
「元気でな」
「うん。元気で」
何百回も繰り返して見てきた右の手のひらに、私は手を振った。
歩き出そうとした、そのとき。
背後で「あ」という光輝の声がして、私の足は反射的に止まる。
「ん?」
振り返ると、光輝がこちらを見ていた。
「なに?どうした?」
「クリーニングの引き取り、行くんだよ。春物のコート」
「ああ、クリーニング。忘れてた」
「やっぱりな」
光輝は少し心配そうに頷いて、今度こそ背中を向け、遠ざかっていった。
「最後の会話が、クリーニングの引き取り…か」
ふっと笑いがこみあげてきて、そのあと、なんだか急にさみしくなった。
光輝と過ごしてきたすべての時間。
日々の小さな笑いや失敗。なんてことのないやりとりの断片。
大量の記憶が心からこぼれおちて、さっそく心に、大きな穴が開きかけている。
でも、決して単純な喪失感ではなかった。
ぽっかりとしたその穴の中には、なんともいえない、不思議な達成感がうずまいている。
― ひとつの時代が終わったけれど…春は、はじまりの季節だから。
私は確かな足取りで、改札をくぐった。
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